県民の森の行く末とカラマツ林

 長野県民の森が松本三城地区の県有林に造られたのは50年前のことである。松本市に管理委託されていたキャンプ場も解消してしまい、入口からの道路も門を閉した状態を昨年、垣間見てきた。戦前より美ヶ原の台地への登山が行われ、その登山口が三城牧場にあり、戦後、開拓集落が開かれ、松本からの登山バスも運行され、休日には賑わった。戦後の登山ブーム、ハイキングの衰退と美ヶ原までの自動車道路の開設とともに三城からの登山路を利用する人も稀になってしまった。

 小生も80歳となり、県民の森の建設に関わっていたことも、関係者の世をさり、虚しい思い出に過ぎないものとなった。数年前にキャンプ場廃止のニュースで県有林の状態を地方事務所の林務課まで問い合わせた事がある。県有林としては、県民の森地区のカラマツの手入れを行っていると誇らしく話してくれた。今から見ると当時、戦後に植林され、30年生、10年生のカラマツも80年生、60年生となって林木の価値を発揮することになっている訳である。以前、若いカラマツ林をレクリエーション利用の場とするために風致林に転換することに悩まされことと重なってくる。

 造林による規則的に植林されたカラマツ林は間伐を適正に行って、規則的な配置で維持される程、下枝が枯れ上がり、林内が暗くなるほどになると、そこで、放置すると枯死して全滅状態に衰退する。よく、80年生まで手入れされたと感心するが、いずれは皆伐で終了がやむを得ないことであろう。天然カラマツでは直径が1m近く、樹高が30mにも及ぶが、大概は孤立木となっている。自然の樹形を見せる風致林に人工林を導入するには一律の間伐を停止して、自然の不規則な間引きを見習う必要があり、樹冠をとなる下枝を広げたカラマツが点在あするような林冠群の配置が必要だろう。こうした推移とともに、カラマツ林の風致が実現するのではないか考えるのである。県民の森が衰退した理由として、見所となり、人々が見たくなるような森林が存在しなかったことも、その理由に挙げられるのではないかと考える次第である。