森林景観の過去と未来

はじめに
 森林景観と言えば、眺望の中で、山地を覆う森林景観を思い浮かべる。広く、遠い山地の緑としての森林景観は、一様で、農村や市街の背景であれば、、歴史を遡っても、地形の特徴ととともに、不変のように感じられる。農村や市街は人々の生活の場で変化する景観であると対比されるからである。
 しかし、その森林に近づいて見ると、個々の林分の集合した模様で、谷や尾根、山麓や山腹で森林の姿が変わってくる。林分の景観を構成する樹木の種類や大きさが相違しており、その樹木群が年々、成長し、その森林の構造を変化させてきたことに気づく。現在の林分は過去からの成長の賜物であり、今後の未来にも成長を遂げ、森林が遷移していくものであることがわかる。眺望の緑はこうした個々の林分の集合だったのである。
 個々の樹木の成長は、人間の寿命に似て、数十年の歴史を持っている。人間に老若の世代があるように、林分にも、老若があり、特別に残されてきた林分には数百年の歴史があるかも知れない。樹木には数百年の寿命があり、人間の歴史的時代とともに持続することができる。現在の森林景観は、人間が関わって歴史的に作り出したものであった。個々の林分も人間の何代もの関わりから、生じているのである。

林相(林分景観)の過去の推測
 林分によって相違する森林の姿を林相と呼んでいる。森林が成長し、森林遷移が生じて、その林相が変化していく。しかし、人間が林木を伐採するなど持続して利用し続ければ、森林の破壊と再生が循環的に生じて、一連の林相の変化が繰り返されながら持続することになる。雑木林、施業林の景観は、十数年、数十年で循環する林分の景観であり、異なる林相の林分が配置された眺望の景観である。林分の施業来歴がこの循環の過程を表示しているだろう。個人所有の森林であれば、直接、聞いてみれば分かることである。
 各林分の林相はそれぞれ時代的背景の中で、人が関わり、成立したものであるが、薪炭利用の衰退、林業の不振から森林が放置される状態が、その時代的背景とともに出現し、育成の中断とともに林木生育の停滞と自然遷移による変化が生じてきた。循環的利用がなされないことによって、歴史的にもない森林景観が生じ、変化を続けている。この過程を読み取ることは、場所による変化も大きく、概観して過去を想定することしかできない。しかし、人工林では施業の中断は、林木の衰退とその結果、災害の危険増大などの深刻は事態を招く危険性が増大していることが考えられる。すでに、倒木などの生じる林分も見出せる。

未来の林相の予測
 現状の林相から、将来の林相を予測する場合、過去から現在への成長や遷移の過程を知ることが重要である。この過程は将来に継続しながら、次の変化へと連続しているからである。すでに、現状分析から、現状の改善が災害の危険から急がれる場合もあるだろう。しかし、森林の推移が循環的に生じる場合には、予測するまでもなく、次代の森林は隣接しした区域の林分に見つけることができる。しかし、こうした次代の森林を見出せない放置林分では、予測は困難となる。森林構造を分析し、論理的に推論していくことが考えられるが、その実証は時間が経過して、経験的に見出せることである。
 林相を改善しようと手入れしようとすれば、経済的な利益によって、投資と利益との循環的関係を構築する必要がある。しかし、その手入れが森林育成にどんな効果を発揮するかは、予測の範囲でしかない。放置したままで自然に生じる変化と手入れして生じる変化には相違があるとしても、どれだけの相違があるかは予測だけであり、その経過が進行した結果でしかその判断はできない。
 手入れは現状の森林を変化させ、放置は継続させる。手入れされた林分と放置されたままの林分はすぐに相違が生じるのであり、その状態から徐々に相違が顕著になっていくので、経過年数によって予測できる範囲がある。5年では現状から少しの変化であるが、10年ではより不確かであり、50年先には皆目検討がつかない。そこで、5年後か10年後までの予測を上で、手入れを行いながら、次の5年後、10年後を予測して、それを50年後まで継続させるkとである。段階的に森林育成の目標に近づけることである。しかし、50年生の森林を、100年生の森林に近づけるのは、100年生の森林の姿を知っておく必要がある。