森林風致 アルプス公園

 昨年、アルプス公園の拡張と再整備の完成は、松本市百周年の事業のひとつであった。公園の開設式典には、建設に関係した地元、建設業者などが多かった。公園の再整備部分は、入口に当たり、式典のための花壇などもなく、芝生と樹林に遊具などが設置されて、都市公園らしくなり、利用者も多く、その後も賑わっている。しかし、拡張部は長年、放置された山林でそこに設置された施設は自然環境と違和感がある。公園整備はもとあった自然環境を生かした整備にはなっていない。森林公園と都市公園の対比が浮き彫りになっているように感じられる。森林と都市、自然と公園の接点を作る可能性があったのに残念である。これは、森林行政と公園行政との接点の無さにも起因したものではなかったのだろうか。
 記念式典から1年を経過して谷あいに水辺環境の整備が行われている。ニセアカシアに広葉樹も混生して数十年生の森林は安定している。その谷底を小川が流れ、それを長い橋から見下ろすことができ、小規模な渓谷景観となっている。水辺に遊歩道を作り、水辺を石を配置したコンクリートで固める工事が進行している。そこにビオトープ再生ができるのか、どのようなビオトープが成立する可能性がるのか、土田先生に聞いて見なくてはならない。
 造園において、地形を尊重するか、改変するかによって、自然的となるか、土木的工事となるかが分かれてくる。アルプス公園拡張工事では、土木的工事が優先している。自然環境を利用する施設として公園を考えるか、要求された自然環境を創造した公園と考えるかに、分かれるといっても良い。
 埋立地などの人工的地盤では、自然環境を創造するという考えとなるだろう。しかし、必ずしも創造する環境が自然である必要はない。こうした人工的な公園を自然環境の中で作ろうとすると、自然破壊をもたらすことになるのは当然であろう。実のところ、自然環境を創造する事はできない。自然をイメージした人工に終わるであろう。公園拡張部はかっては人里であり、それが放置されて自然が回復してきたのである。かっての人里をイメージして農家と畑地を模した広場の場所が作られた。しかし、農業の営みもなく、農家の生活もないイメージの空間は、実体感が薄く、維持も難しい。また、草花の広場は、森林を剥ぎ取り、芝生の広場に野草類の花壇を配置して、展望は良いものの、野山のイメージもわかない。今作られている水辺はいかなるイメージなのであろうか。
 自然環境を公園利用するためには、機能的な施設配置が必要である。拡張部には公園の背後から接近するための駐車場が作られている。そこから、谷をまたぐ長大な歩道橋がかけられている。これらは一種の機能美を感じさせ、利用者に不可欠の施設となっている。しかし、公園内部に管理道と作られた道路は急峻な山腹を切り盛りして作られ、自然環境に損傷となって公園利用の環境を破壊している。
 自然環境を生かすとすれば、自然のままで人は入らない方が良いといえるのだろうか。野生鳥獣の棲家として自然保護が必要ならサンクチュアリーとして人が遠ざけられるのはやむをえないであろう。しかし、自然の中に入らなければ、自然に触れることはできない。その環境を体験した時に良さを感じる場合とそうでない場合がある。公園拡張部で良い場所は、尾根のアカマツ林が立派であり、亜高木層、低木層、草本層と複層林となっていて、その自然の多様さを楽しむことのできる場所である。以前からの道が通じており、この部分は何も手を加えず、そのまま利用された。広葉樹林はまだ若い林が多く見られたが、競争関係で枯死木があるなど安定しておらず、過密な感じで快い林とはいえなかった。歩道をつけても歩きたい道とはいえないものだった。自然環境を生かした公園整備は、最小限の施設で利用するものであるが、森林自体がより楽しめる状態であることが条件であり、楽しめない森林には手入れの必要がある。森林の手入れは林業の範疇であり、林業的手入れと造園的手入れの接点となる部分である。
 以上の様にアルプス公園拡張部の整備は、人工的整備、機能的施設整備、施設過剰な環境破壊、環境を生かした整備、環境の改良の必要な場所の5つの異なる次元の整備が混在している。人工的な整備箇所に自然が回復し、自然環境が優位に残されながら、育成されて利用されるような、時間と維持管理に向かって、変化していくことが望まれる。