場所と場面 近代から現代へ

 近代初期とは、現在から200年前近くなるのであろう。その3分の1の年数を生きて、時代の変化を体験した。第二次世界大戦終戦後の混乱、東西対立と経済の回復、高度経済成長、ソ連解体と後進国の近代化進展と安定経済、バブル破綻と経済再建を経てきている。安保、大学紛争、自然保護運動にも直面した。風景、自然、生活環境に地方サイドでの関わりを持った。技術、科学の進展が急速であり、経済、社会の変動は著しかったといえる。根強い既存の体制も変革が迫られている。しかし、古い世代の比重は大きくのしかかり、新しい世代への交代を阻んでいる。この危機を克服し、進歩の希望を保つことができるのだろうか。
 近代の過程を振り返れば、多くの危機に遭遇している。経済不況、世界戦争、各地の紛争や抑圧の社会体制、国家間の対立、社会階層間の対立、環境危機など、火山の噴火口にように終わり無い危機が噴出している。しかし、個々の人間は、人間的な生き方を可能とする社会や環境を追求しているといえる。民主主義の理念によって平等の権利の行使が目指され、社会的な共同を進展させてきたのではないか。科学、技術は留まること無く、進歩し、人々の欲望を増幅させてきたが、理想とする人間的な価値観に抵触して、新たな生活スタイルが構築されてきたと考えてよいのだろうか。
 現代は近代の継続なのか、新たな時代なのか。近代が理想としたものを踏襲し、科学技術の進展を継続させている点では、近代の継続した時代であろう。新たな時代を夢見て成立した社会主義体制は行き詰まり、資本主義体制へと転換しており、孤立的な国家体制は、開放的な国際関係に転換せざるを得なくなった。人類と地球環境の関係を危機として共同して乗り越える状況にもなってきた。これらは新たな時代を示しているが、やはり、近代社会の進展がさらに拡大して展開したといえる。情報技術の進歩によるネットワークの構築は、国際化した近代社会を個人の末端にまで拡大し、そこに参加できる状況を生み出している。
 しかし、実際の危機的状況を脱出していないということは、近代社会の理想の平準化とは反している。以前の理想が豊かな社会として現実化された面はあるが、現実の表層の中で理想が常識化し、さらなる向上の行動目標として意識されなくなっているのだろうか。