森林風致 都市と森林

 市街が山地に近接し、市民が普段に森林環境に接することができる都市がいくつかある。奈良、京都、鎌倉の3古都もそうである。都城を立地させる上で、盆地や背後に山地となるような立地が選ばれたことによるのであろう。また、近代当初の開港地となった長崎、神戸も山地に接している。城下町は平野と盆地に分かれるかも知れない。長野県の松本、松代、上田などは山地に接している。一方、江戸は平野に開かれ、東京として発展した今日、市街が遙かな彼方まで続いている。「武蔵野」が残っていた時代には、丘陵の起伏に畑地と雑木林の入り組んだ風景が思い浮かぶ。
 都市の発展は、農村地域を蚕食していったのであろうが、樹林は農村環境の一部であったといえる。すなわち、武蔵野にみるように、都市民は農村地域を媒介として森林に接することができたのであろう。しかし、山地に近接した都市では、農村環境の媒介なしに森林に接することができた。山地からは市街を見下ろすことができ、また、市街の背景には山地の景観があることになる。山麓は市街に接して、山中への入口となるだろう。こうした都市では、都市の成立当初から住民は近接した山地、森林、自然環境に日常的に接することができた。これは、仮定ではあるが、住民の自然への意識を特別に育成する要因と考えれば、近接した山地のない都市住民の自然への意識とは相違するはずである。
 神戸にとって六甲は特別な山地である。神戸だけではなく、北に芦屋市、西宮市が連続して、六甲山地に接している。山麓には住宅地が開かれ、その住民は背後に六甲山地に面することになる。六甲山腹から大阪湾の湾曲した海岸線が見渡せ、市街の景観の背景に六甲の稜線と緑がある。山麓の住民は、山地を登山やハイキング、散歩の場所として利用する。同時に近代的な市街に出かけ、都市住民の生活を享受することができる。こうした近代的生活は、神戸港の開港による、外国人の居留地とともにもたらされた。港の見える山麓の高台に異人館街が作られ、六甲山地にゴルフ場が作られるなどの影響は今日にも残っている。歴史とともに、山地に近接した立地上の特性が、神戸人の特性を生み出しているのではないだろうか。田中正大氏が広大な風景の意識が、京阪神の人々に培われていたのではないかと、それはなぜだろうかと疑問を問いかけられたことがあった。答えることはできなかったが、今、上記のように六甲山地に接した立地も、広大な風景の意識を住民に培っている要因の一つではないかと考える。
 東京は「武蔵野」に描かれた丘陵の農村地域に都市開発が進行していった。東京の市街の広がりの中に農村環境の名残が各所に残っている。住民は歴史的な都市発展を体験しながら生活し、また、現在、農村環境の名残を居住環境を補う自然環境として利用しているのではないだろうか。東京の中心はかって江戸城であった皇居であり、首都としての都市機能と環境を整備していった。国際交流、経済活動の中心として企業、産業の集中が進み、人口の急激な増大とともに、居住地の充足も行われた。江戸の歴史的環境もまた都市形成の中に組み込まれていった。広大な首都圏の市街の広がりのなかに、樹木や樹林が散在し、人工的環境と巨大な社会、経済の非人間的な空間と活動に、人間的な自然の潤いをもたらしている。このように、東京人の自然への憧れは、過去の思い出と自然の断片から生じるのではないだろうか。たまに出かけて以上のような感慨を抱くのである。