森林風致 風致の主観性

 自己という意識は同時に自分に対置する他人を意識するものであると理解され、脳科学においても自分という意識の所在がどこに、どのように成立しているかを問題している。人間に限らず、動物は植物には存在しない神経の活動があり、環境を感じ取って反射的に行動する脳を持っている。人間は道具を使うことによって環境を操作することができるようになったが、道具は手の延長であり、道具によって環境を意識させるものとなった。脳の進化が動物から環境を操作する主体として人間を生み出した。
 集団の関係も、個の意識が作用するものとなっていったが、社会的な発展が共同体関係を原始的状態から文明の状態へと変えていったと考えられる。
 現代文明において原則として個人の権利、自由が尊重され、個人の意識を平等に尊重する民主主義によって、個人の意志、主観は、不可侵の領域とされているといえる。しかし、心理学や脳科学は、個人の意識の領域を人間一般の問題として展開している。
 森林風致も個人が意識する問題であるから、主観として個々に異なるもので、一般化して森林風致が何かと示すことができないということも、これまで言われたことであろう。しかし、ここに留まっている限り、森林風致の追求はできない。
 行動にとって環境の知覚は、不可欠であり、本来、環境を知覚することは目的ではない。行動における環境の知覚は、感覚刺激と反射的な意識によっており、人間の一般的な能力に依拠する点で、主観による相違は生じないと考える。人々が社会に依拠して生活している点で、生活行動にも社会的な条件への適合として、共通性が大きいと考えられる。
 こうした社会的に見た個々の生活行動から、森林に出かける目的はあるのか、あるとすれば何だろう。出かけた人は、森林を知覚し、風致を感ずることになるだろう。森林風致を感じることが目的となるなら、森林風致の存在しない場所には出かけないであろう。