風致と風景 殺風景 材料―物質

 人間も物質に換言できる。しかし、いかに複雑な物質であるかということが、追究されている。しかし、生物のいかに複雑な物質であろうと生体である活動をやめてしまうと分解し、単純な物質、分子、元素になって、形態を失っていく。もはや、その物質が生体を構成していたことは無関係となる。生物を個体として見出すのは、複雑な物質の構成である状態であるということであろう。生物が複雑な物質の個体であることを有機体という。逆に生物の死は、有機物である個体が無機物へと分解することであろう。生物は生物自体が有機体であるとともに、環境に対して有機的な関係を形成することによって生活するといえる。生物を主体として環境と有機的な関係、交流が結ばれる。生物の死はその関係の終焉でもある。
 人が行動するために環境を知覚する上で、環境が事物が相互に有機的な関係を持って成り立っていることを前提としているのではないだろうか。事物が無関係に並んでいるだけの状態を雑然としたものと感じ、その事物の中でも、生き物に安心感を持つのは、無機的で雑然とした環境には、感覚に訴えるものではないということであろうか。雑然とした都市環境で疲れ、複雑な調和を持つ天然林で安まるように感じることは、一般的といえるだろうか。無機的であるということは、無機物の環境であるとともに、有機的関係がないことをあらわしている。有機的であることは、有機物の環境であるとともに、有機的関係で構成されていることを表しているといえる。無機的な環境には、風景が成立しない点で、殺風景というのであろうか。逆に有機的環境には、風景が知覚されるといえるのだろうか。
 知覚心理学では内臓感覚を有機感覚とも言われており、生物学において有機的環境と無機的環境が区別され、有機的環境には、生物が介在している。風景において視覚対象の事物が有機的関係にあることは、事物が連続して見え、視野が分断されないことになり、視野を構成する要素が調和すると感じられるのではないだろうか。これに対して、無機的であることは、関係自体が存在しない状態で、視野が分断され、風景が成立せず、殺風景という意識に陥るのであろう。人は有機的関係を求めており、風景の成立は満足が得られ、不成立に不満足として殺風景があるのではないか。