森林風致計画研究所の目指すもの

はじめに
 森林風致研究所も1年半を経過し、第三回総会の時期を迎えている。総会の期日の調整に会員の強い意見があった。研究所の目指すものの提示である。大学の研究室を社会に移して展開できないかが、研究所の端緒であったが、社会の要請を受けた研究や活動の展開は、大学のように待っていて、生まれるものではないことを実感している。社会のうねりを感じるような要請はどこにあるのかを思索する1年であったといえる。しかし、もう待てないのではないか、社会に必要だと思うことを提示してもらいたいというのが、会員諸兄の要請であり、研究所の存続に緊急な問題であることは確かである。「森林風致」の看板を掲げて、そこに何かがあり、それは社会に必要な問題であることが、単なる感想ではなく、信念であるならば、それを証明する必要がある。
 どこにも存在する森林、その森林が失われることに、何か喪失感が生じ、森林の存在に意味があることを意識させることは、誰もが持つ感想であるだろう。その森林を守り、育てる必要をもって対処することが、信念の吐露となる。その信念を社会的に有意義なものとして、賛同を得るためには証明が必要となる。感想の段階としての「森林の存在」に共感できるか、信念の段階で「人間に必要なもの」の内に入ることなのかに賛同できるのか、証明の段階で「社会の変化」において必要がどのように顕在化するのかの判断がどのようにできるか、そして、行動の段階で、その判断の上で「活動展開の可能性」をどう展望できるか、こうした議論の進行で、「研究所の目指すもの」を明らかにすることはいかがであろうか。

森林の存在
 森林は空気のように普遍的な存在であり、意識するもでもなく、人間に不可欠な存在といえるのであろうか。たしかに、人類が野生動物の一種であった進化の過程には、森林を生活環境として不可欠な存在であったであろう。近代の工業生産を中心とした社会では、人々の多くは人工的な都市環境に居住し、そこでは森林は日常的な環境ではなく、不可欠とはいえない。人工か自然かというよりは、人工の環境に自然的な要素を加味する方が過ごしやすいということであろう。
 しかし、広く国土全体を見れば、3分の2は森林に覆われている。しかし、それでも逆に言えば、3分の1は森林ではない、草地、農地や住宅や工場などの施設用地、荒廃地などである。森林はこうした土地利用から残された環境であり、山地や奥地などの条件で森林が残りえたともいえる。山地によって森林が残っていることは、土地利用の制約であり、農地や都市の発展を阻害しているともいえる。山地を無理に開発すれば、災害の危険や利用困難な環境をもたらすことになる。一方、平坦地が広がり、開発の制約がなくて、広い範囲に森林を喪失してしまった場合にも、居住環境を悪化させることになる。広く森林が残る環境は、環境改変の影響を減少させている。
 森林はただ存在しているだけで、利用もされず放置されていても、価値があるのだとしてよいのであろうか。確かに、無くなったり、少なくなることによって問題が生じるが、存在しているだけで放置していることは、無価値の証明である。森林が存在していることは、土地にゆとりがあることの安心感があるが、放置されていることは利用の衰退を現し、社会的な活力の低下を示している。
 森林によるゆとりを活力として、社会的向上に役立てるところに、森林風致の実感が生じるのではないか。しかし、これは確かな現実とはなっていない。

人間に必要なもの
 人間に必要なものは、衣食住を充足させ、生存することであることは、原始時代から文明のいくつもの段階に普遍的なことと言えるのではないだろうか。人類の長い進歩の過程に対して、文明の展開はごくわずかな時間に過ぎないのだという話がある。森林環境と結びついた身体的能力の発達は、原始時代の大きな痕跡として、人間に本来的に不可欠なのだということに結びつく。しかし、これは証明の難しい仮説である。
 人間に本来的なものが、生存であるなら、動物と同じである。しかし、野生動物は自然環境の中で生存するために、あらゆる能力と方法を使って生きている。人間は知力、言語によるコミュニケーションと体験を知識とする蓄積と技術開発によって、自然の束縛から脱することができた。自然には存在しない人工物を生み出し、人工環境の中で容易に生活することができる。一方、自然環境に適応して生み出された先天的な能力は、退化していく一方である。最も人間的な能力である知性でさえも、磨かなければ同様である。もはや、不可欠な存在ではない自然環境は、かって持ちえた野性の能力を再認識する上で、必要なことではないだろうか。より以上に人間が持ちえた知性によって、自然と調和した生活環境を獲得し、生活の充実をはかることが、人間的必要といえると考える。

社会の変化
 近代社会は、並存しているように見える都市と農村の関係が逆転した。農村の自然と全体的に関係した生活は、自然と分断し、自然を様々な要素に分断する都市へと移行した。この転換は人間が意識して生み出した変化であるのだろうか。

活動展開の可能性
 自然と結合した農村への回帰は困難である。