森林風致計画研究所の希望

はじめに
 周囲からの森林の欠除に、喪失感が生じることに、森の口さんからコメントをいただいた。現代では誰もが、森林に限らず、多くの喪失感が感じている。それらの喪失感に真正面から向き合って埋めることは簡単ではない。喪失感を紛らわすことを問題とし、景観模型は紛らわすことを形にしたものであり、「愚直」に積み重ねているものであるが、この「紛らわす」ことの積み重ねが、喪失感を生じさせる地盤を次第にゆるめることに繋がると感じられる。そして、今朝の新聞の経済学を「希望学」として追及している玄田有史教授の「愚直」な取り組みの記事を送っていただいた。希望学は希望の挫折、喪失の現実から希望を持てる条件を分析し、挫折を重ねることが希望につながり、生き方の物語が生まれることを明らかにしたことを語っている。
 確かに、森林が喪失しただけではなく、森林とともにある生活の希望が喪失しているのかもしれない。しかし、希望があったから、挫折も生じるのであろうから、挫折や喪失感を持つことが大切なことなのであろう。子供の頃の夢を育てた世界は、大人となって現実の前に何度も挫折している。そこで、希望を失うのではなく、挫折を「紛らわす」ことを「愚直」に積み重ね、希望の可能性を「地盤をゆるめる」ことで見出すことが、森の口さんの言わんとしたところであろうか。

森林風致の弁証法的展開
 希望の可能性の追求が、直線的に進んで、立ち直れない挫折に至るそんな生真面目さから脱して、気楽に出来ることから紆余曲折を進むこと、そこに、希望を持ち続ける「物語」が作られる。これは、希望は理想であり、理想には理念が含まれ、弁証法的な過程をたどって変質しながら、実現の道をたどるとしてよいであろうか。森林風致を、人が森林に美の調和を求める理想であるとすると、その社会的実現には弁証法的な過程をたどることになる。しかし、その実現は結果であって、物語は空想でしかない。今は実現のための「愚直」な積み重ねが弁証法の一段階である。遠い結果ではなく、今、ぶつかっている現実に、どう紛らわして希望を失わないか、森の口さんの助言にしたがって提示するのが良いだろう。

当面の森林風致を明らかにする方法

 1 先人の森林風致の追及を学ぶこと
 2 自分の下した森林の風致的取扱いの考えと結果を明らかにすること
 3 森林風致の評価される限られた森林の利用と森林の関係を検討すること
 4 森林風致が評価されない多くの森林の欠点、長所を検討すること
 まだ、やることは多く、森林風致は終わったなどとあきらめる理由は全く存在しない。希望を失わないで紛らわすこと、その通りです。森の口さん、ありがとう。