森への働きかけ−森林美学体系構築に向けて−

はじめに−森林工学科廃止の意味
 K先生から送られた本をこれから、読むに当たって、林業工学による森林美学への展開が主眼とされている。大変楽しみである。しかし、私の所属した大学では、全国唯一の森林工学科があったが、分離した林学と合体して全国初めての森林科学の名を冠した学科が設立され、森林工学が廃止された。森林工学を廃止してまで、森林科学を作る必要があったのか、現在の結果から考えるとわからなくなる。林学には林業という産業の背景がある。その林業が衰退していったことで、林学の意義が薄らいできた。林業を支える林道建設、治山工事などに重点が置かれるようになった。これが森林工学科の設立の意義であったのだろう。
 森林工学科では、森林土木に造園を導入して、山地から都市緑地整備への足がかりを作った。また、農業工学との提携によって地域環境整備へ工学の範囲を広げる可能性も考えられた。しかし、森林工学の中心となる地域への広がりは、困難な現状もあった。例えば、奥地開発林道による森林破壊である。これに対して、自然保護への転換から出発する必要があったといえる。その後、山村の村づくりを支持する地域計画への方向によって、学科の結束も試みられた。林学では、林業の復活を期して、森林施業の経済性の追求を技術の面から実践的に行い、木材利用の促進のための材質研究も進められた。
 現在考えて、これらの取り組みが間違っていたとは思えない。森林工学と林学との連携とまだ、なすべきことの何かに欠けていたことが、現在の結果を招いたのであろう。それは、森林科学における中心課題である森林資源への取り組みであったと考える。拡大造林の政策に迎合して、カラマツ植林を進めた責任もあるだろう。しかし、なによりも、責任があるのは、私を含め、大学教員の研究教育における理念と展望の無さが、結果として、協力を生み出さず、目標への論議が希薄であったことと考える。散発的に学生に情熱を掻き立てる研究室もあったが、学科全体の目標にはならなかった。森林科学の存亡が問われる今、過去の反省も繰言でしかない。これから、私自身何を目指すのかを、見出すべく再生する必要があるのだ。また、同時に森林科学の再生が必要であり、これを模索しているK先生からの本は示唆に富むものといえる。

森林の働きから森林への働きかけへ
 森林の機能を森林の働きということがある。森林が存在することによって生じる機能であり、その機能の発揮は、人間の関わりによって相違する。人間が介在しなければ、その機能は森林の存在を示すだけで、人間には関係がない。人間が介在することによって、森林の機能の発揮があるが、森林によって機能の重点が相違することが考えられる。
 どのような森林が存在するかも、人間の介在の結果である。すなわち、森林への働きかけによって森林が相違してくる。これを本の題名にしている著書は、この新たな視点を表明しているようである。森林への働きかけによって生じた森林は、森林の働きを最大限に発揮するもであること、それこそが人間の英知であろう。それを見出そうとし、見出した人こそ、フォン・ザーリッシュであり、メーラーであった。そうして出来た森林は、最大限の美であるに違いないという確信が、「森林美学」であろう。
 新島の「森林美学」はガイヤー・メイルを学んできた著者が、留学してフォン・ザーリッシュの著書に触れたことが契機となり、北海道の豊かな森林を目前にして、生み出されたものであり、さらに、今田がドイツ林学がメーラーの恒続林に到達して、森林美学の完成に至る過程を、明らかにしている。清水裕子氏はガイヤー、ザーリッシュからメーラーの「恒続林」が構築されている点を論じている。
 今回の著書では、北海道の明治以来の森林開発のプロセスを森林への働きかけと見なして、森林の働きを最大限に発揮する森林(恒続林)を形成し、その森林体験によって広範な森林美学が成立するだろう。これこそ、K先生の大きな功績といえる。