景観のための森林施業

はじめに
 風致施業の提唱はいくつかの方法が示されているが、日本の実行例で著名な事業が、嵐山国有林の風致施業である。画伐作業によってアカマツ林の再生をはかり、アカマツと下層のヨシノザクラの景観の回復がその目的であった。森林遷移でアカマツの植林地の生育は思わしくなく、照葉樹林に覆われる結果となった。戦後、嵐山の試みを下方の視角による隠蔽効果に着目して、この画伐作業を理論づける論文も著された。しかし、皆伐作業による森林施業が困難になってくるなかで、森林遷移を重視する必要はより大きいといえる。
 嵐山では照葉樹林が過密となり、暗い林内にはアオキが群生し、林床は裸地となり、土砂の流亡のために治山工事が必要とされ、近接して林内を見れば、治山工事による擁壁が各所に目に付く状態である。嵐山の森林が風致林であるとはとても言えない状況である。せめて、照葉樹林を育成して森林として健全な更新を図るべきだったのではないだろうか。しかし、アカマツ林の復活は近年にも試みられているようである。
 古く南北朝夢窓疎石の発案によるアカマツーヨシノザクラの二段林の景観は、嵐山を花見の名勝地としたのであるから、その復活は、地元の悲願となることはやむを得ないことであるが、森林遷移の現状からは、皆伐してもアカマツ林は復活できないだろう。照葉樹が株立で再生し、北斜面であることもアカマツの生育を困難にするだろう。まして、小面積の画伐作業では、アカマツ林の育成は難しかったのであろう。

東山の森林風致計画
 東山もかってはアカマツの疎林の禿山であった。50年前に登った時、山頂部は禿山の状態が残っていた。その後、ドライブウェイができ、展望が楽しめたようだが、その後、森林の成長で展望は閉ざされていたようである。東山山麓は社寺の裏山であるが、億の山頂までの区域が明治になって国有地とされた。そして、風致保安林に指定され、アカマツ林もほとんど禁伐の状態で、森林遷移にまかされた。昭和初期に嵐山と同様に、大きな風害のために、高齢となったアカマツ林が壊滅的な被害を受けることになった。
 破壊された東山の景観再生のために、関係者の議論の末に東山国有林風致計画が昭和11年に立てられたのである。東山が広大な面積を占めていること、社寺の裏山であること、植林地も存在していたことなどの条件から、嵐山の景観再生のための風致施業とは、相違するものとなった。東山の風致計画は、長期的な森林経営計画と言えるもである。
 しかし、戦中、戦後の混乱で、森林経営計画を継承した実行は困難であったのだろう。風致保安林区域で森林の放置が持続したのではあるまいか?破壊されたアカマツ林は、照葉樹林として再生し、アカマツ林、落葉樹林の区域も縮小しているようである。また、禿山は全く無くなったといえる。京都市街から東山が望めるが、その山肌は照葉樹の樹冠で覆われている。春の芽吹きの彩り以外にはあまり季節の変化が見られないのではないだろうか。
 嵐山と東山は明治以前は周辺農村の収奪的な山地利用によって禿山状態であり、明治の国有地化とともに風致保安林とされ、アカマツ林が禁伐の状態で推移し、昭和初期に風害によって被害を受けるという過程をたどった。その後も放置状態のまま森林遷移が進み、照葉樹林となった。しかし、嵐山と東山の照葉樹林の状態に相違があるのではないだろうか?一方は過密で、林内が暗い状態で、高木の樹高も高くはないようであるのに対しして、東山の照葉樹林の外見は、樹冠が大きく、大木があるように思われる。実際に行ってみる必要があるが、その相違がどんな原因によってもたらされたかに、興味を覚える。