造園論3

広場から庭へ

 造園雑誌で広場論を展開したのは、渡辺達三氏であり、其の展開に期待をよせていた。しかし、日本において、実体としての広場はあいまいで、界隈、道や辻などが生活空間として感じられる広場的な場所であるのかも知れない。いや、日本には古代からの広場として神社が共同体の広場として持続しているのかも知れない。渡辺氏の広場論はマルクスに依拠する大塚久雄の共同体論によって、西洋と日本にも共通する普遍的な広場論の展開だったように覚えている。
 現代生活は共同体から脱皮した個人による自由経済の社会であり、近代文明として広められた社会構造の中に置かれている。広場の実体は不明確となり、群集の行き交う界隈となって残っているだけかも知れない。共同体論をしま、くに論に置き換えた考えを初めに聞いたのは、中村一氏からであった。日本の共同体の領域として考えられる「しま」、氏族社会を統一した専制国家である「くに」は、マルクスでいえば、原始共同体から共同体のアジア的形態への移行であったと符合させることもできるだろう。
 古代専制国家の成立とともに、共同体は奴隷制社会として社会の下部構造となり、支配者に従属する存在とされた。それが、古代の「くに」の成立であり、蘇我の馬子が造ったと言われる「庭園」が「しま」と呼ばれる謂れなのだと類推するのである。「しま」は海中にあっては島であり、島民の生活領域となる、陸地にも河川の氾濫減に存在する小高い台地を島と呼び、集落の名前に使われている所は現在まである。
 古代専制国家の中心は都市であり、支配の中心として神殿と宮殿が造られた。神殿、宮殿には、国家的な祭祺と朝廷の支配の場所としての広場が、原始共同体からの広場の移行として造られるようになった。それが「ニワ」の謂れであり、「しま」と重なるのだと言うのである。
 ヨーロッパの古代社会の共同体は古典古代的形態であり、市民による都市広場が現れるとともに、市民の居住空間には生活と菜園の場として庭が造られた。中世にはゲルマン的形態と呼ばれる村落共同体が社会の下部構造となり、村落には教会が中心となり、共同体の広場が造られた。l共同体は騎士や領主によって支配され、領主は城館によって生活し、城館内には庭園が造られた。

庭から公園へ