岡崎文彬先生の森林風致の功績

 私は昭和40年に北海道大学を卒業し、京都大学農学部の岡崎先生の造園学研究室に研究生で受け入れてもらい、翌年大学院修士課程に入学し、昭和43年に岡崎先生の推挙で京都大学附属演習林の助手の職を得て、昭和45年1月に信州大学に赴任した。岡崎先生には5年間にわたってご指導を得たことになる。岡崎先生は昭和47年に京都大学を退官され、その後も著作活動に活躍され、韓国庭園見学旅行には同道させていただいたことがある。退官に際していただいた記念誌「五線紙」から先生の森林風致研究の意義を考察してみよう。
 岡崎先生は1908年生まれで、1928年京都帝国大学農学部林学科に入学し、1931年に卒業、同時に助手となった。1933年から1936年にかけて造園学研究のために欧米各国を留学し、復職している。講師、助教授となり、1950年に教授となった。
 先生の最初の論文が日林誌に1930年に掲載された「森林美学の根本問題に関する二、三の考察」であるが、その後1940年頃まで欧州、日本の庭園研究に専念している。1941年になって林木生理の研究が続き、1950年ころから森林施業に関する研究が見られるようになる。1964年から庭園研究が復活してくる。さらに1970年から森林風致の研究がみられるようになり、「森林風致とレクリエーション」出版が行なわれているのである。先生の最初の論文から40年を経て森林風致研究へと復帰したことになる。その間に庭園、林木生理、森林施業、庭園という過程を経たことになる。最初の森林風致だけで庭園への専念は何故生じたのか。庭園から林木生理への転換は何故なのか、森林施業から庭園への復帰へと大きな転換が見られる。
 最初の転換としての庭園研究への専念は、先生の新進気鋭の時期であったが、既に、田村、今田の論客に抗することを諦めたのかもしれない。林学における庭園研究は異質といえるが、関口先生による造園学研究室の開設があり、日本庭園の本場としての京都にあっては、求められた研究課題であったのかもしれない。フランス、ドイツ、イタリアの庭園を中心に歴史的研究にまい進されていった。林木生理への転換は森林経理学講座での立場上の問題から生じたのかもしれない。1950年にはその教授となり、森林施業の研究へと発展したといえる。そして、庭園研究の復活は造園学研究室への席の移動と関連している。しかし、造園研究室の展望を、造園工学から庭園に転換させることになり、次の展開は林学に位置づく造園研究として、森林風致を目指そうとしたことが、森林風致研究も再燃となったのではないかと考える。しかし、次代の中村一教授、吉田博宣教授に継承は成功しなかった。
 岡崎先生の森林風致研究に果たした功績は、森林施業(照査法)に位置づけられた風致の復活であり、社会的な要求と関係づけを明確にし、知覚において成立する風致の側面に注目したことである。