風致を造園する方法論Ⅱ連続2(住宅庭) 

 住宅庭の造園に当たって住人が主体であるのが、当然なのだが、造園家に依頼される場合を考えよう。造園家にとって自分が住み、利用するわけではない庭を依頼主の要求が実現されるような戸外環境の庭を作り出す。機能的な要求は施設、設備として実現されるが、表現としての空間形態とそこから生じる雰囲気は造園家の感覚である。依頼主は庭を自分のものにするために造園家がどんな感覚の持ち主かによって選択する必要がある。造園家は施主の生活要求を理解して、機能的な要求を実現する上では、全く、奉仕者として施主のための戸外室を戸内との関係で生み出そうとするだろう。こうした造園家の依頼主との関係は中村一によって考察されたことがある。しかし、表現としての空間形態とそこから生じる雰囲気―これを「風致」とするのだが―造園家の感覚に依拠せざるを得ないのである。依頼主である住人が居住し、庭を生活の場として利用し、必要によって改造し、植物の成長によって管理していく中から住民の生活スタイルを表現する庭の風致が実現する。しかし、その空間の骨格、原型が造園家に依拠している限り、風致の深まりは一定の方向性を持っており、これに反した庭と生活者の交流は、風致を喪失させるものとなるだろう。それ故、住人は最初の造園をまかす造園家を十分選択するか、自分が感覚を磨いて造園を行なうかいずれかで、風致の実現が可能であろう。
 造園家の感覚は、修業の過程に磨かれるわけであるから、修業をさせた師匠から継承され、その師匠はさらに自分の師匠を受継ぐといえるだろう。こうした造園の伝統をアートの技術に昇華した教育体制は、いくつもの教育機関が設立されたが、確立しているとはいえない。未だ造園技術を伝承する造園家によって、伝統的な庭園様式の感覚を注文された庭に実現し続けているだろう。その庭は伝統的な生活様式と建築様式に即応しては最も効果的である。しかし、伝統的な生活様式は衰退し、趣味的なものとしてのみ持続していると考えられる。田村は、日本式とした伝統的庭園は現代生活に適応しないものとして現代式を推奨した。当時、現代式の様式が展開していたわけでなく、今後、展開の必要として示したものと考えられる。
 日本式庭園は現代式庭園とは異なるものとして田村は峻別したわけだが、造園家は伝統を捨てることはできず、伝統を活かした転換をはかろうとしてきたと推察する。日本庭園は近代的な造園の潮流に影響した要因の一つとアメリカの造園家サイモンなどによって述べられているが、日本の造園家には、幹が日本式庭園であり、近代的な造園が枝であり、近代的造園を幹として受継ぐものではなかった。欧米の造園家が作る自然風の庭はなにか日本式庭園を感じさせるが、日本の造園家の作る現代の庭には、伝統の洗練が失われ、現代生活空間に違和感をもたらす要素として見かけるように感じるのは、伝統と現代との相克が招いていることなのであろうか。 日本式庭園は日本の自然環境に即応した様式であるが、伝統的生活様式に固く結合している。イギリス人の造園家ブルックス氏が「イギリス人が作る庭がイギリス庭園であるように、日本人が作る庭が日本庭園なのだ、日本人にはイギリス庭園を造ることはできない」と述べるのを聞いたことがある。その言によれば、近代化された日本人の生活様式もやはり、日本人ならの性格を持ち、その作る庭に反映するはずである。
 以前に農家庭の調査で住人に庭の様式をたずねたことがある。洋式か和式かと聞くと、そのどちらでもない「自然風」の回答が多かった。確かに、自然風であることが日本式かもしれない。自然には、無理をしないことも含まれ、かつ、自然環境を取り入れたものでもあるので、居住生活に連結し、周囲の自然環境にも連結し、それによって住民が生活と自然環境を交流させる場としての庭が自覚されているのである。住宅地には考えられないことであるが、山村では裏山の渓流から石や樹木を庭に移し、流れを引き込んで池を作り、庭先を超えた背景には眺望を展開させるような庭を造って楽しんでいる。そこには日本式生活と日本庭園の姿が実現していると考える。伝統的な日本庭園は、過去の生活様式との固定した関係を解き放ち、自然環境を基礎にした住居と庭、戸内と戸外の交流関係に位置づけた庭園様式の形成を考察して現代式の日本庭園を見出したらよいのではないだろうか。