森林公園時代の出現Ⅱ

 昭和39年東京オリンピックは高度経済成長期中盤の国家的イベントであった。これに平行して東海道に新幹線が開業した。私はまだ、学生であったが、新幹線開業の数日後に乗車し、隣席の乗客から感動をもって話しかけられたことを覚えている。オリンピック東京大会選手村跡地は、設計コンペが行なわれ、昭和42年に代々木公園として開設された。この設計コンペに選ばれた設計案は東大の塩田敏志先生と研究室の案であった。代々木公園は都市内に不足した自然環境を回復させ、市民の休息の場を提供することが意図され、樹林が豊富な公園であり、明治神宮内苑にも近接している。代々木森林公園の命名も行なわれていた。しかし、森林生態系を再生しようとしたのはバードサンクチュアリーの部分だけであり、公園利用のために芝生で覆われ、また、実際、過剰な利用が行なわれ、芝生の維持が困難となった。明治神宮内苑を都市内の森林公園とも理解すれば、明治神宮内苑の造営の時期における、新宿御苑をどう見るかが問題となる。新宿御苑も樹林が豊富であり、もとの日本庭園の区域に洋式庭園を加え、風景式庭園があり、芝生に豊富な樹林が見られる。代々木公園以上に森林公園と称しても過言ではなく、広い敷地もあって芝生と樹林とが公園利用に最適な環境を提供している。歴史的に3つを森林公園として、並べてみれば、新宿御苑、神宮内苑、代々木公園へと森林と利用の状態は悪化しているといえるのではないだろうか。しかし、それは公園計画が悪かったのではなく、都市環境の悪化が原因であり、都市内部に森林を確保する困難さの表れといえる。
 塩田先生は昭和40年代の森林公園時代の計画の旗手の役割を果たしたと評価され、森林公園の計画論の確立を目指したと考えられる。1970年の安保改定を前にした大学紛争、東京大学にはじまり、いくつもの大学で大学封鎖が行なわれ、東大では1年間大学入試を取りやめた時期があった。大学内部は社会との関係の希薄な学問のありかたへの反省と追求が行なわれ、学生と教員の自主講座が盛んになっていった。塩田先生は本多静六以来の東京大学造林学講座の一角で田村剛以来の造園学を継承する立場と人物であったが、正式講座ではなかったために長く助手であった。東大の伝統ある造園学研究室に対して、京都大学は戦前に造園学研究室を東大から関口先生を招いて正式講座となり、戦後も関口先生のもとでの新田先生から岡崎先生のもとでの中村先生へと持続していた。その中村先生のもとに塩田先生から伝統ある造園学の東大、京大における「造園学のありかたをめぐる論議」の提唱があり、東京から塩田先生と当時の学生が、京都に出てきて話し合ったことがある。これが私の塩田先生との出会いであった。その後、私と院生の吉田君とともに東大の塩田研究室を訪ねた。造園学のあり方の議論は、両大学のベースが大きく異なり、進まず、大学紛争の進展の中で終わってしまった。大学紛争中の京大造園研究室の自主講座で武蔵丘陵森林公園のコンペが行なわれ、その批判として反コンペを課題として取り上げた。審査などのあり方を批判しながら、案を作ろうとして、のどかな牛糞の香りただよう計画地に向かったことがあった。しかし、頓挫して応募までにはいたらなかった。塩田先生のグループは応募して入選を果たしている。塩田先生は選考のあり方、計画案の尊重の必要を主張し、それが行なわれない現実を批判していた。
 日本観光協会が昭和48年に刊行した「観光レクリエーション施設の計画」の中で森林公園の著述を塩田先生が行なっているが、代々木公園、野幌森林公園、戸隠森林植物園、武蔵丘陵森林公園の4つの計画事例をもとに森林公園の計画論を展開しようとしている。4つの事例のいずれにも塩田先生が直接、間接の計画者となった関与している。これらの事例は都市公園、自然公園、自然休養林、国営公園であり、森林公園の多義さを物語っているといえる。塩田先生によれば、昭和41年に明治百年記念事業として記念森林公園と明治の森が作られることが内閣で閣議決定されているがこれが森林公園の設定に大きな根拠を与えたとある。昭和46年には生活環境保全林整備事業が行なわれ、森林公園つくりを推進していったといえる。