森林公園の計画論

 森林公園は明治百年記念事業を契機として各地に作られていったが、より以上の要因は森林を戸外休養の場として利用する社会的要求が増大してきたことにあると考えられる。この要求に対して供給としての利用できる森林は生産的利用の減退による放置、大都市近郊の都市的開発によって減少していっていた。「戸外休養増大の社会構造」に関しては別に考察することとして、供給する必要のあった森林の問題を検討してみよう。
 森林自体は国土の大部分を占める点で不足があるわけではなく、また、交通機関の発達は遠隔の森林を利用できる条件を作っていったわけであるからこの点でも不足があったわけではない。休養の場とすれば、森林自体は広く広がっているのである。こうした不足が問題となる以前を考えるなら、森林が生産的に利用されており、生産的に利用されることで需要を満たしていたことになる。森林の生産的利用の減退は森林の質的変化をもたらし、質的変化によって利用が困難になったことが考えられるのである。しかし、森林の側にだけ問題があるのかといえば、利用者側にも問題があったと考えられる。交通手段の発達は広域に行動圏を広げる一方で、近接した日常圏の環境への疎遠さをもたらし、利用を減退させたと考えられる。休養の行動様式とその内容もまた質的な変化を起こしていたのである。大都市住民には生活に近接した森林環境の喪失が、休養の質的変化に拍車をかけたと考えられる。
 森林公園の計画にあたって、社会的な必要性を具体的にとらえておく必要があるが、これは予測によるしかない、完成し利用が現実となってみて利用が少ない、または過剰利用となる結果がある。そして、都市住民の恒久的な公園となって利用盛衰と施設の老朽化と再開発としての計画が循環的に行なわれるだろう。この利用と環境の循環が向上するか、低下して縮小するかが、森林公園の存在意義を決定する。公園における森林は成長し、環境を変化させるので、この循環関係は最初からの前提となる。また、計画にあたっての前提が既存の森林を資源として活かし、育成することである。利用を公園に誘致する要因は、利用に都合の良い立地条件と環境の資源的魅力であり、環境は施設と森林によって構成される。塩田先生の目指した森林公園の計画論は、計画のこうした構造で理解できる。
 加藤誠平の監修した「北海道百年記念野幌森林公園基本計画の研究」には塩田先生が主要な部分を分担していると考えられ、森林公園の最初の設計として緻密な計画を展開している。野幌森林公園の計画地は国有林と開拓地が混在し、開拓地は計画用地に編入する必要があった。面積は2000haに及びヨーロッパの都市林に匹敵する規模を有するものであった。札幌の都市拡大が近接区域に及んでおり、都市近郊の森林公園としての利用価値は有望と考えられた。しかし、公園化は、森林経営の停滞、農地の放棄と開発の進展と、森林の危機的状況のもとで進展しており、公園専用地に囲い込むことによって森林環境を確保することでもあった。そして公園化された区域以外は、危機的状況をそのまま進展させたのではなかったのだろうか。また、広大な公園区域の管理は面積に比例して困難さを増大させる。ヨーロッパの都市で、林業経営と両立させて休養利用の場となっている理由も公園管理の上で合理的な解決であったと考えられ、風致施業も可能であったことが推察される。
 しかし、日本の森林公園は公園利用を優先し、森林経営を前提としなかったといえる。その点で林学の範疇から、造園の範疇の問題へと森林風致の問題の重点を移行させたのである。森林公園の計画論は休養利用の量的、質的予測にたった資源利用のための敷地計画と施設配置計画の造園が基本となり、林業経営による森林風致の育成は従属的となった。森林を景観資源として計画に活かすための景観分類と分析が課題として考究された。その森林景観の育成は林業的な施業類型を提示するに留まり、風致育成の方法論として利用者―行動―知覚―環境―森林構造―森林施業の全体的関係の展開にまで及ばなかった。