森林風致・風景学Ⅰ総論1,2

Ⅰ 総論 講義の構成と概要

1 森林風致の意味について

 私たちの生活の中で森林に接する機会はどれだけあるだろう。それは、生活環境の中にどれだけ森林が存在しているかにもよるだろうが、私たち自身が森林に近づきたいと考えるかにもよるだろう。森林に近づきたいと考えるのは、森林に魅力があるからであるが、それは森林が自然環境であるからなのだろうか。

 森林を自然環境と考えるなら、原生林がそれに当たる。原生林は人工に対比される自然 開発に対する未開を体現している。人工、開発によってわれわれの環境が成立しているのだから、原生林は人間に対立的な存在といえるのかもしれない。森林にも人工林も含まれる。森林破壊後、森林を再生させるために植林して成立した林であり、林業として木材収穫を継続的に行なうために成立させた森林である。森林破壊後に自然に再生した二次林といわれる森林もある。これらの森林には、自然の回復力、労働の成果、自然の生態系による個性に魅力を感じるかもしれない。しかし、私たちが森林に求めているものは何であろうか。育成途中で放置された人工林は、荒廃したといわれる。そうした森林の広がる山地には、人々は魅力を感じず、近寄ろうとは思わないであろう。

 魅力を感じる森林と感じない森林の違いはどこにあるのだろうか。美的な効果や楽しめる行動のできる森林を公園として実現することはできる。しかし、公園と森林とは異なる。庭園や公園は作られた人工の自然であるのに対して、森林は人工が加えられても自然の回復や生態的な均衡をもった環境である。こうした森林の魅力―森林の中に入って感じ、森林と一体感が生じる意識ーはあるのかどうかはわからないが、その探求に乗り出す価値はあるのだ。それは人工の世界にはない、新たな世界を身近に得られる可能性があるからである。

 施業林の美の実現を追求した「森林美学」は、林業家にとって森林に対する休養の場としての社会的要求に応じるものであったが、林業家の森林は適切な林業の持続で美を発揮するものであるとの確信があったことによって希求されたといえる。森林を美なるものとして知覚し、美を育成することによって、さらに美が知覚される。森林の自然的な生育は、育成の人為を加えずに美が実現している森林が生じること、人は森林の生育とともに美を見出し、森林の美に対する認識が深められることを想定するようになった。これが、皆伐作業から恒続林への転換である。

2 森林風致の場の構成

 社会的需要と森林の休養環境の提供のもとに森林風致の場が構成される。この図式はまず、ヨーロッパの諸都市における近代市民社会と都市林との関係に当てはまる。さらに、ドイツにおける国土美化運動のもとで、広い国民意識林業地域との関係として理解され、フォン・ザリッシュの「森林美学」が生まれた背景となったと考えられる。(この点は赤坂先生に確かめる必要があるが)
 森林風致を特定の森林の林内に成立するものか、広く国土、地域の森林の被覆として成立するのかという二つの観点の相違が上述の背景から生じるが、両者の結びつきを風景画に展開した風景意識が可能したと考えられる。しかし、視覚的な風景の知覚は、眺望としての森林の知覚を強調し、それに従属するものとして、眺める場所に生じる環境の知覚を軽視するものであった。眺める場所に限定された林内環境は、五感に作用し、森林空間の複雑な構造は多様な刺激と変化をもたらす林内環境を現出させている。そこに感応して生じる意識が「風致」として区別されるべきであったと考える。
 岡崎、中村らは見る場所からの眺望の広がりを至近景から近景、中景、遠景の同心円的な知覚の広がりに位置づけ、見る人の場所からの知覚を五感を伴う至近景、近景として強調した。塩田らは見る場所が閉鎖された空間の知覚として囲繞景観とし、これに対して開放的な空間の知覚を眺望景観と区別している。林内は囲繞された空間であり、至近景、近景の知覚が場所として意識され、空間を構成する森林環境によって風致の意識が喚起されてくるといえる。これに対して開放的な空間における眺望としての中景、遠景は視覚を中心とした知覚であり、視野を構成する要素によって生み出される絵画的な眺めー風景である。しかし、その風景も一定の場所からの見る人の意識を通した眺めである。場所の感覚と意識によって生まれる風致と風景の知覚は並列し、両者が連結したときに風景への一体感としての印象や感動が生まれるといえる。風景は前景と背景によって印象づけられ、それを知覚する人は遙かな空間の中心にあり、空間との一体感を体感するのである。