神社空間の考察Ⅲ

 神社は集落共同体によって成立してきた。集落の生産基盤は水田を中心として畑地がこれを補う農業であるが、地力の維持、水の確保の点で山林との結合は不可欠であったといえる。神社は集落の社会的中心であり、信仰がその求心力となった。それは、農業に不可欠な自然環境との結合を人為的に強化し、その及ばざる自然の恵みと脅威に対して信仰をもって対処したといえる。共同体の中心として神社空間は集合の場となり、ここに広場論の論拠を渡辺達三は見出した。また、自然環境の関係における集落と神社の立地を景観論の論拠とする人も見られる。しかし、これらの論は現在の集落の変貌にどのような展望を見出すのであろうか。様々な側面から集落の実体を想定することができるが、主体と環境との関係の実体に迫って追求する必要はないのであろうか?今は集落の広場は利用されることなく、道路に改造され、山林は放置されて神社の社叢はそのシンボル的な景観特徴を失っている。

 神社は古い氏族社会に由来するものがあり、古事記の中の神話に位置づけられたものがある点で取り上げられることもある。また、民俗学の問題として郷土の風習と関連して取り上げられることもある。しかし、神社が近代になっても作り出されていることを見ることができる。国家的な事業として明治神宮などが上げられる。地域の分離や逆に併合が新しい神社の建設となることもある。共同体論から考えるにはあまりに多義にわたる神社の実体があるといえる。地域の中心となる神社にその地域の開拓や村を維持した住民の努力に手を合わせるにしても、その古い社殿と社叢を前にして、自然の中に存在した原始の生命を感じ、自然への崇拝の念もまた生まれるのである。しかし、われわれは原始人でもないし、神を信仰するわけでもないのである。

 神社は氏族の血のつながり、集団の共同のつながり、歴史のつながり、自然とのつながりを有する複雑な存在であり、近代化されたわれわれに異次元の世界を近接させている。われわれは無神論者であり、多神教の信者でもあるのではないだろうか?原始林でなくても、近くの社叢から自然の神秘を感じ取るのである。その神秘の力が人の運命を司ることを許容させるのかもしれない。しかし、個人主義が進展し、地域社会が衰退するとともに自然崇拝の念は失われ、異次元の神社空間はその意味を失い、無機的で空虚な自然へと転換する。単なる共有地となり、境内をはみ出す社叢は厄介なものとして切り取られる。しかし、近代的な居住空間に異次元な神社空間を調和させることができれば、生活は自然と連続した豊かさを持つ可能性があるのではないだろうか?

 住区に配置された都市公園、街路の街路樹の味気なさを思うと、自然はその生命を失い、材料として空間を構成しているに過ぎないと感じさせるのである。また、公園や街路が住民の共同意識のよりどころとなる広場にもなりえていない所に社会の非情さを感じさせるのである。