山麓集落の神社における住民利用の変遷と空間変化

 箕輪町下古田白山神社を事例として上記の表題の報告を行なおうとしているのであるが、一事例の調査が一般性を持ちうるかが、問題となる。一事例であっても普遍的な問題として解明できれば、研究に値できるのではないかと考えた。下古田集落は、山麓集落の一般的条件を持っている。また、時代的な社会変化は日本全体に生じた広範な問題であった。白山神社の名前はこの地域にもいくつか上げられる。白山神社は白山をより所とする山岳信仰であり、神仏習合のもとで仏教とも一体化されていた。しかし、明治には神仏は分離させられた。下古田白山神社は事例であるが、そこには一般的な論点として論文を構成することが可能といえる。
 山岳信仰が何故、地方の一集落に存在しえたのであろうか。その実体も定かではないが、集落の住民が修験道の行者となって、裏山の尾根を駆け巡ったのか、その跡が遺跡として残されている。農民でありながら、行者のような修業があったとしたら、その必要はどう考えたらよかったのか。農業の豊凶を支配する自然条件への祈願、封建制度のもとでの自己修養と霊力の体現などが考えられる。島崎藤村の「夜明け前」の主人公の維新の変革に際した悩み、信仰への依存と破綻に思いが馳せる。
 山麓の神社と背後の山地との関係は、修験道白山神社によって信仰の結合が考えられた。山地の尾根は神社から山頂への修業の道であった。山頂は霊山にも準えられたのであろうか、聖域として大事にされる要因にもなったであろう。これは集落内において入会地として草木の採取地を確保し、隣接する集落にその領域を明示する上に役立ったであろう。自然の霊力は山地の恵みや水源の水、陽光をもたらし、自然の脅威をなだめる自然崇拝の念であったのであろう。山地への入口にあって霊力を依りつかせる場所、聖域への入口に神社が設置された。
 明治になって神仏は分離され、修験道も廃れた。山地は聖域ではなくなり、山地は区分されて所有地になった。神社の霊力はなくなり、集落の共有地と生産協力関係の象徴に留まるものとなった。