原生林保護

 南アルプスと知床は昭和39年に同時に国立公園に指定されている。自動車の普及とともに道路建設が奥地にまで及びそれとともに森林開発、観光客の増大が進み、原生林の希少価値が増大してきたこと、アメリカにおける原生林保護の法律制定なども影響して、未開発地域であった知床、南アルプスを国立公園に指定したといえる。自然環境の極致として人間の影響が及ばない地域の原生の自然環境が、何故、価値を持ちえたかには、自然を破壊した文明や人工的環境に対するアンチテーゼがある。国立公園の指定は原生林保護を公認したと考えられるが、現実は原生林を奥地の森林資源として開発するための道路建設が平行して進められていた。地元の山村地域はさらに観光開発への期待をかけた。
 林道建設による急峻な地形に対する改変は大規模な土砂崩壊の原因にもなって、原生林を破壊した。林道は山腹、尾根、沢を何度も蛇行しながら、急斜面を切り取り、盛土して、北沢峠まで上りつめる。その間、各所に工事が崩壊を誘発して大規模な崩壊地を生み出した。国立公園指定の目的に反する無謀な工事といえた。開発に対する反対は同時に自然保護となる運動であった。開発の推進は地元となる山村地域の振興のためとして行なわれた。昭和49年毛利環境庁長官の現地視察に対して開発反対と推進の陳情が平行して行なわれた。その後、自然公園審議会の結論は林道開発の容認と反対の両論併記であり、林道開設が認められると同時に利用がバスに規制されるものとなって、昭和53年林道が開設、北沢峠を通過するものとなった。その結果、観光開発は遠のき、登山利用が主体で維持されることになった。また、奥地林開発も行なわれなかった。それで原生林は保護されたといえるのであろうか?
 林道は長谷村、芦安村村営バス通行に限り、登山バスとして利用された。その安全通行のために林道の維持は災害の危険にさらされてきた。また、林道開設によって生じた道路の開放空間は周辺の森林に影響を与えた。しかし、やがて残された森林の安定と破壊された林床、林縁の植生回復も見られるようになった。開放空間は多様な植物の生育を促進する効果もあったが、自然からすれば変則的な植生回復であった。残された天然林は持続することは可能なのであろうか。崩壊地は自然にも生じている。急峻な地形は厳しい侵食の賜物であり、そこに成立した森林はその侵食の影響を受けざるを得ないといえる。亜高山帯針葉樹林の中に孤立的に点在するカラマツは何を意味しているのであろうか。大量の雨によって各所に土砂崩壊が生じた時、東大平の上端にあった大平小屋の裏が崩壊することがあった。そこにはおそらく200年をこえるカラマツの巨木が見られた。200年前にも大規模な崩壊があり、そこに先駆的に生育したカラマツの最後の生き残りであったのかと、改めて見直した。土砂崩壊と森林再生は自然に生じている。長年、南アルプスの森林の調査を続けた馬場先生は戸台川流域の北斜面を形成する鋸岳の沢のカラマツ林の生育を調査し、それを土砂変動と関連けた論文をまとめている。土砂の動的平衡の考えは東先生の考えであるが、これをカラマツ林の生育に関連付けたものであった。こうした土砂による森林破壊と再生が循環する構造のもとで、林道開設を契機に進行した治山工事、砂防ダムは沢の動態を安定化させ、天然のカラマツ林の成立を阻害するものといえた。
 林道の通過した戸台川流域の国有林区域の森林開発は行なわれなかったが、三峰川源流域の国有林は戦後の森林開発が続行され、ほとんどその資源を開発しつくしたといえる。皆伐後、森林回復は可能なのかを、現在の三峰川源流域の森林が示している。植林した場所では、天然林の再生は妨げられ、放置された場所では自然の森林回復が行なわれている。広大な流域の範囲では多様な様相を把握することは簡単にはできないが、自然の森林回復においても、以前の天然林には回復しえないのではないかと思われる。短期間の伐採によって林齢の幅が狭くなり、また、切り株からの萌芽更新は森林を過密にし、共倒れ状態を生み出す可能性もある。天然林の回復は、一見の森林回復では計り知ることができない問題であり、一度破壊された森林の再生は自然の循環を取り戻すために非常な長期間を要するものであろう。