風致と風景 前景の効果

 風景は前景によってその効果が全く異なる。借景の効果は遠景を庭園に引き込む上で使われるが、それは前景の庭園によってである。日本庭園が庭園自体に景色を取り入れた縮景を再現している段階から、風景自体に展望を広げる上で借景がその手法として見出されたといえる。しかし、風景の前に庭園はあまりにも矮小な存在である。それは庭園にいる鑑賞者自身の矮小さを暗喩している。風景を取り入れると同時に、風景に対抗できる庭園を生み出さねばならなかったのである。であるか、風景を前景のベールをかけて庭に見合うように隠さねばならなかったのである。修学院離宮の庭園は庭園の規模を拡大して、借景に対抗できる庭園を生み出すことができたといえよう。西洋ではイギリス風景式庭園において庭園に風景の知覚を構成する場面構造を作り出し、さらに、風景を庭園から連続する眺望に改造したのである。
 都市には風景が成立するのかと考えた。都市内部で地表に立った眺望の場所は、雑多な建築物に囲繞され、限られている。しかし、上空にまだ広がりがあり、空の風景を見出すことができる。
空の風景に対する都市の前景は何であろうか、夕方は空に対して前景をシルエットの陰としてくれる。昼間ならば前景は前方の自動車道路、歩道、建築物、広告、電柱と電線が際立ち、空を背景として隠して風景の成立は困難であるだろう。また、風景の効果を作り出す陽光の方向と道路の進行方向が合致したところに空の劇的な光の効果を知覚できるのである。
 しかし、地上の山地を知覚できる場所はほとんどないのではないだろうか。京都のように盆地の都市や神戸のように山の迫った都市でのみ、周囲の山地の遠景景観を街路の透視図法の正面に見ることができるだろう。しかし、両側は建築物の壁で視界を遮られる。こうした都市景観はシンボリックな山頂への軸線を大切にして、大通りをこの軸線に合わせて作るれば都市景観は周囲のの自然環境と結びつく、日の出、日の入りとその方位の季節的変化に軸線をあわせ、天空の運行とも一体化すること考えられ、中国、北京の天壇、地壇、宮殿と都市街路の配置配置には、人間の生活を自然環境に結びつけた古代の考えが持続している。 
 地下に掘り下げられた道路、両側が防音壁の道路は両側が壁となって閉鎖的な空間を構成している。さらにトンネルとなれば上空が天井として閉鎖される。自動車の窓枠の前景に重なり、街路の両壁が前景となる。前景の閉鎖によって風景の構成は見られなくなっているといってもよいであろう。前景は空間を構成する壁となり、環境への手がかりは狭められ、位置の把握は、知覚から情報の認識に転換し、信号に依存する。
 環境を構成する材料が単純で、雑然としている程、その場の環境の手がかりが狭められ、刺激への判断から、推理の判断に依存するようになるだろう。内部意識に重点が移り、現実意識が薄らぐと空想が広がり、現実との隔離した幻想にいたるかもしれない。心理学の感覚遮断の実験はそうした事態を示している。実際は視覚情報がなくなれば、聴覚、嗅覚、触覚に依存して情報を把握しようとするだろう。聴覚による音は音源となる事物の存在の情報となるが、嗅覚と体感的な触覚は事物の発散する大気による情報であり、気配、雰囲気となるものといえる。それが閉鎖した空間では、空間そのものの雰囲気ということになる。空間は前景によって区切られた場所であり、主体の立つ場面である。主体は空間の雰囲気に支配されるといえる。 
 最初に戻って考えれば、遠景に対して前景が作用して風景を構成する。前景によって風景の構成は異なるものとなる。前景の閉鎖による空間は、構成する材料によって空間の雰囲気を生み出す。前景空間の材料の違いと雰囲気の相違が遠景と重なる時、どのような風景を構成するかを考察していけばよいといううことになる。あまりに観念的な思考だが今後、考察を深めねばなるまい。