原生林 破壊からの回復は不可能か

 何千年前の衰亡した文明、人が住めなくなり、森林に埋没した遺跡と同様に、現在の文明もいつか衰亡するのかと空想は広がる。緑化は人間が自発的に進める自然回復であるが、都市環境の衰亡の兆しといえなくはない。自然が失われて都市が衰亡するならば、都市の衰亡が自然を回復させるかもしれない。老朽化した家屋に茂る草木、ツタで覆われた壁こそ、都市の衰亡の兆しといえる。高齢化社会に沈滞した経済は都市環境を衰亡させていくことはまちがいない。しかし、廃墟となった都市のイメージは自然をも破壊した姿かもしれない。人間社会の衰退に対して自然破壊の持続が平行していくのかもしれない。杜甫の詩「国敗れて山河あり」とはなりえるであろうか。
 もう存在しない原生林は人為の影響が軽微であった時代には、存在していたとして、植物社会学で潜在自然植生を想定している。その潜在自然植生からの破壊程度によって自然度が段階的に評価される。この自然度は人為の影響の停止によって可逆的に自然度を向上せしめるものなのか、それとも不可逆的なものなのかである。自然状態において破壊からの回復は循環的な動態として成立しているとすれば、自然度の回復は可能であり、その回復過程は植生遷移として現象する。しかし、循環を超過した破壊によって、途中で回復が停滞した退行状態が現象する。植物社会と人為的影響との広範な関係を総体的に表現する植生図と自然度図が作られており、そこから何を読み取るのかで、植物学者の文明論への提言を必要とさせたと考える。しかし、植物学者の専門として植生回復はどうしたら可能なのか、自然度を損なわないで人間の環境をいかに形成できるのかという植生保全の方法を明らかにしてもらいたいのである。
 草刈場、荒廃地の森林遷移、放置された農地の自然回復、放置された伐採跡地、火災地、放置された植林地など、人間の利用と手入れから放置された植生は広大で多様な状態で存在している。景観変化として興味が持たれている問題もあるが、利用の仕組みとその社会的要因と植生の自然的要因が関係して景観を持続させ、また、改変させる現象である。景観変化はこうした要因変化の結果である。景観が評価され、それを持続させたいとしても、その要因が持続しない限り、不可能であり、特に遷移途中相の森林の持続は困難であり、そうした技術を適用できないで、失敗に終わった例が嵐山の風致施業であった。
 今、利用されなくなった山林が広大になっている。放置され、自然が回復してきているといえる。しかし、自然の循環的な回復とは相違している。これまでの利用による植生管理のサイクルが一斉に放置され、自然の循環とは異なる別の回復の過程に向かっている。この実態を明らかにしていくことが、植物学者への前述の期待である。