住宅庭 閉ざされた庭 開かれた庭

 阪神地域は戦前から電鉄資本による住宅地開発が行なわれてきた。人口増大によって郊外へと住宅地が拡大し、今日にも拡大を続けている。開発年代によって新旧の住宅地が、重層し展開し、新旧の対比を際立たせている。年代による建築形式と敷地の外構も相違しており、住宅庭の趣味のスタイルも相違している。古い庭のあり方、新しい庭のあり方は生活の仕方と関わって興味深い問題である。新旧の住宅地が隣接する、とある住宅団地の各戸の門と玄関の写真を撮って見たのだが、閉ざされた庭と開かれた庭の違いを、新旧の違いとして感じた。この違いは何を意味しているのか考察してみたい。

 写真は30数年前の住宅地の住宅であるが、門冠りの松と石塀によってガードされている。こうした形態はこの地区で50%以上が同じ形態をとっている。写真は庭木の手入れがよいが、行き届かない家も多いようである。住宅地全体が高齢化しており、建物も老朽化が進み、なかに改築工事も見られる。しかし、高い塀や生垣、入口の門扉、生育して繁茂し、高くなった樹木で暗く、閉鎖的な庭となっていることが多い。犯罪も多いということである。住宅地開発が行なわれた当初、新築したそれぞれの家はプライバシーを重んじ、独立した生活を考えていたのであろう。玄関口は定型的な形式で、体裁を重んじている。それによって、門と建築の形式は合致していない。街路に面して敷地内部の生活空間を防御しているといえる。
 和式の外構と和式住宅はいかにも調和して見える。和式住宅が廃れたのは着物と畳から、洋服と床の生活へと変化したからであるが、住宅と生活の調和までは外部からうかがい知ることはできない。
 隠された庭は庭を造る人のイメージを実現することができる。空想の自由が庭に実現される。一方、庭は管理を必要とする。イメージを持続するために労力を要することになる。自由なイメージが人を束縛することになる。人は庭によって自分自身に囚われることになる。ため息をついて庭のために働く、あるいは、お金を使って管理する人に頼む。しかし、そのイメージは自分の望んだものだったのか? こんな自問自答に悩みながら年老いていく。あるいは庭は自分のものではなく、庭を造った庭師のイメージであるのかもしれない。庭を構成する要素や材料、その配置、芝生や草花、樹木の季節変化とその生長、そのために要する管理これらは庭を造った途端に現実となってくる。
 囲いを解いて人を招く入口、門、玄関前は閉ざされた庭が開放される部分である。各家の前庭は、街路に面して開かれている。そこに庭のイメージが進出していくことは、その家の人の近隣への対し方でもある。道行く人をイメージに誘い込み、その家に招きいれ、その主人に対面する。固く舗装された街路に生活の場を連結するイメージが前庭に籠められ、限られた住民の住む住宅地で、個人主義の頑なさを、近隣の親睦へと変える。道で出会う人々は、挨拶を交わし、それを楽しみに道へと出て行く。
 新しい住宅には堅固な囲いは見当たらない。住宅の形式は近隣で統一されていない。街路に面する庭もまた多様である。古い囲われた庭では見えなかったイメージがそのまま開かれて道行く人に目を留めさせる。競い合うように個性を主張する開かれた庭にそこに住む若い人々の生活の意気込みが感じられる。しかし、その意気込みを目前にするだけに庭のイメージを持続することの危うさが感じられる。やがて放置されて、あるいはイメージを見失って、荒れた庭が残るのではないかと。庭が無理なく持続するためには、自然との均衡が必要であり、自然の作用を助長しながら、庭のイメージも育てていく必要がある。開かれた庭が展開するには庭のイメージと近隣の交流、自然との調和の3者が呼応していく必要があるのではないだろうか。
 閉ざされた庭の生態系はどのように造られるのだろうか、前に、出会ったイギリス人の庭師に感心したことがあるのだが、植物を学名で覚えているので、日本の在来種を英国の園芸品種に種、属に対応して認識し、庭に野草を取り入れることに積極的な興味を示したことである。また、英国では当然のことであろうが、植栽間隔を成長後に焦点を合わせて、計画どうりの花壇を作ることである。また、野趣の感覚を大切にしていることである。植物の種の生育地を尊重し、野趣の感覚は植物の構成に反映して、植物社会の構造を尊重した植栽を行い、また、管理するということになる。日本の造園にとっては先進的な考えと技術である。イギリス庭園ブームが表面的な形態を模倣しているとき、日本に進出したイギリス人の庭師は、基本的造園技術から日本人にも適合した自然風庭園を開発しているのである。その人は数冊の著書も著しているのご存知の方もいるかもしれない。
 生態系をビオトープとして設計する技術の開発も進められているが、庭つくりにもこれまで様々な経験の蓄積がある。囲われた狭い空間に植物を育て、池を作って魚を飼う。長年の内に植物は衰退もするけれど、成育し、繁茂もする。場合によっては繁殖もする。やがて庭の管理が、自然の作用に向き合っていることに気づく。芝生の草抜きに、クローバーの根茎の伸び方を知って除草したり、ネジバナなどの生育を喜んで助けてやったりして、人工的な芝生は自然風の草原に変わって、そんなに無理な管理をしなくても安定してくる。人間はその草原に放牧された家畜のようなものである。防火水槽にも、水草が繁茂し、水を替えなくても澄んだ水が維持され、水中の生物が繁殖するようになる。しかし、これは類まれな自然の作用を喜び、それを庭の管理に受け入れることによって生み出される。長い経験的な庭との交流の賜物なのである。時にそのような庭を見かけ、その家の主人の自然に対する優しさが感じられる。