風致と風景 空間―霧と闇

 空間は建築にふさわしい言葉である。建築内部は、床、壁、天井によって構成される空間である。空間は広がりとして感じられる一方、周囲が面で構成された閉鎖を生み出す。平面と側面、正面であり、の広がりと高さから生じる視角の関係によって心理的な開放感、閉鎖感の相違が生まれる。建築の内部空間に対して内部に対する外部があり、建築を外部からみれば立体を構成している。立体内部の広がりは、壁の厚さを含む立体の大きさと等値となり、立体の大きさは壁を除く立体の内部の広がりを示している。立体が建築ではない固体の塊である場合、塊の大きさである。容器である場合、容器の大きさはその内容物を入れることのできる容積を示す。内容物は容器から出しても、その容積を保持している。前記の素朴な観察に対する抽象的な考察は、様々な事象に対する原始人の体験と古代人の概念化の過程で既に生み出されているものだろう。
 立体の大きさに対する概念と、空間の広がりという概念は建築や容器においては関連付けた判断が成立するが、外部空間全体とした時、壁や境界のない広がりをいかなるものとしてとらえたのであろうか?天空の広がり、地表の広がりは視界として空間の広がりを知覚させるが、地表の広がりは果てしないものであるし、天空の高さも限界のないものである。天空は昼から夜に変化すると星のきらめく無限の宇宙の広がりに一変する。昼の天空の輝きは夜の宇宙の広がりを隠す大気と雲などの幕のようなものなのか? 大気の広がりは雲の高さによって判断することができる。その向こうに見出される無限の宇宙の広がりもまた空間である。地表の広がりは地球の表面であり、一周すれば元の位置に戻ってくる。円や球は反復する無限であるとも言える。それが、直線的な水平の無限を想定したとしても、その無限は想定でしかない。では天空の高さは真に無限なのか?この無限も想定でしかない。光と視覚の直進性は視界の範囲では成立しても、無限の空間には想定でしかないといえる。
 個人の生活の行動範囲は限られ、体験できる視界の空間も限定されている。知識による認識も各人の蓄積は相違しており、人類の知的蓄積にも及ばざる範囲がある。未知なる領域は探検家によって既知になりえても、私も含めて知識の範囲は限られている。未経験、未知に囲まれて生きており、知らないことさえ知りえていないことが多いといえる。無限の空間の広がりは、はるかかなたの問題であって、ごく手前に未知なる領域が迫っている。認識の範囲は認識しえない領域の壁に囲まれている。物理的な壁の背後と壁の表面の内側の空間は裏面の未知と表面の既知との壁でもある。
 壁によって限定された空間の範囲は明確な知覚となるが、壁が明瞭でない霧のような大気の不透明さは知覚範囲を不明瞭としている。霧の不透明さは、知覚の明瞭な領域から不明瞭な領域、知覚不能な領域を漸層的なものとして意識させる。音の大きさも、大小を遠近で知覚するとで、遠方の知覚しえない音の範囲があることを意識させる。霧の外側に出て霧を見れば一定の白い塊や壁を知覚する。音の場合は音源を中心とする音響範囲がある。境界は不明瞭であるが、ある大気の空間的範囲である。匂いも空間的広がりを有する。この大気の塊の内部に入って、その大気を視覚、聴覚、嗅覚で固まりの広がりを知覚することができる。一定の場所が有する大気の状態は「雰囲気」として知覚されるのではないか。空間は壁の限定があろうとなかろうと、大気が充満しており、その大気は雰囲気として知覚される。
 暗闇は視覚的には壁そのものであるが、僅かな光によって闇は打ち破られ、光の当たる部分と当たらない部分の陰との単純化された明暗の対比が知覚される。視覚の得られない闇は音、匂い、風などの体感、直接的な触覚によって闇の中に存在する事物の気配と触った感覚を感じる。闇は何が存在するか分からぬ未知の存在から、気配すなわち事物より生じる雰囲気を感じ取り、その雰囲気によって空間を認識しようとする。僅かな光に対する陰の広がりもまた、闇の一部であり、光は事物の存在の手がかりに過ぎない。闇の中の判断は意識的な予測のもとに成り立ち、予測という前提は未知の闇の存在である。闇は予測する手がかりの知覚が極度に不足するところの状態ともいえる。
 霧によって視界が不明瞭となり、闇によって視覚情報が欠如した状態は、鮮明な大気と十分な明るさで視界が開けた知覚の限界を表わすとともに、その限界を予測によって判断しようとする未知なる物への対処の必要を示している。古代の拝火教の光と闇の闘争が世界の変転を支配するという考えも現代人にとって払拭された問題ではないのではないだろうか。