場所と場面の構造 相互関係

 空間と場所 空間知覚としての風景 風景の場面構造 主体の環境と場面構造 場面と場所の関係これらの課題を総合的に関係付ける議論の土台となりそうな本を見出した。個人の生活史と社会集団の歴史が生み出した場所に対する蓄積を場所を構成する景観に反映し、景観を場所の意味として意味づけ、保全し、創造しようとする意図のもとに行なわれた活動とそれを記述したドロレスの著書「場所の力」である。まだ、「まえがき」を読んだだけなので、本の内容を記述することはできないが、入口の文言だけから、その示唆に喚起されて上記のの関係論を論じたい。
 個人の生活の場である住居から一歩出た外部は、公共の空間である。その街路を通り、町に出て行く。町の商店は個人や企業の私的な所有であるが、商売のために門戸を開いて、入ってくる客を待っている。そうでない場所はやはり公共的空間である。公共的ということは誰でもが利用する場所である。一定の場所の公共的空間が多くの人々からどのように利用されているかの現象を見出すことができる。そうした場所を利用する集団のなかに自分自身が入っている。その集団はなんの人間関係もない空間的に接近しているだけの集合状態にしかすぎないが、コミュニケーションの生まれる可能性がある。人々の集合する物理的な空間は、コミュニケーションの深まりとともに場所へと転換し、利用の蓄積は記憶され、場所の意味となっていく。空間の知覚は、利用の蓄積とともに重層化して、その場所の風景として認識される。空間の構造が利用を阻害するような条件の場所では、利用の蓄積はされず、その空間知覚は風景とはならないといえる。そこで、生活空間の広がりの中で場所を見出し、風景を知覚するといえる。それは個人の経験であると同時に、同じような経験を共有する人々への共感としても作用する。場所はそこを利用する経験の蓄積によって認識され、生活行動の空間全体をみれば、生活構造と行動の空間構造は一体のものであり、経験的な蓄積は生活行動パターンとしての様々な場所の関連を示すものとなるだろう。利用行動によって場所の風景が知覚する状態を場面として、生活構造は行動空間の場面を通じて場面構造を形成する。場面構造は個人的な行動パターンであるが、その集団的な重層した行動を通じて場所と関係しているといえる。
 人工的な空間に対して、自然的な空間の特性は何であろうか。人工的な空間は、それが公共空間であれば、行政体が計画的に機能する空間として作り出したものである。そして人々はその空間を利用することによって、場所の経験を積み、場面構造によって風景を知覚され、地域固有の場所の経験が住民による集団的な利用によって生み出される。これに対して自然空間は機能的、計画的に作り出されたものとは正反対である。自然空間の利用も個人的なものであり、集団的な場所の経験は生じない。しかし、なお、自然空間の利用に共感が生まれるのは何故であろうか?また、それは地域的個性ではなく、普遍的なものである。それは自然空間が機能的な固定化から開放されており、自然独自の有機的関係によって成立する空間に導入されることによって普遍的な共通意識が生じるのではないだろうか。