森林公園の風致施業 藪の評価3

 野山というイメージは、現在の若い人々にはないのであろうか?確かに、戦後しばらくまでは、存在した野山を探しても見当たらない。むきだしの裸地に潅木がまばらに生えるような山地やマツタケのでるようなアカマツの疎林など四国で育っていたころは、そうした野山がありふれてみられた。
 昭和27年に阪神地域に移住して、近くの六甲山や甲山は、やはり四国と同じ野山であった。六甲山は日曜日などはハイキング客が大勢であった記憶がある。大都市域の場合、経済復興とともに都市拡大が山地にまで及ぶようになった。六甲山の山麓も住宅地開発が上部にまで進行し、山地への接近の障害となっていった。山地は低地の開発のための土砂採取場に利用され、ゴミが投棄される場所ともなった。これと平行して近郊農村の山地利用が行われなくなり、放置された野山は藪化し、さらに、森林へと遷移の道をたどっていったと考えられる。
 大学院の頃(1967)、生駒山系の調査に関わって山地を見て回ったが、野山の面影は失われ、放置された藪とアカマツ林が目に付くようになっていた。ハイキング利用も見られたが、自動車時代の中で衰退しているようであった。調査は土砂採取や宅地化の進む生駒山系の現況から、近郊緑地としての保全を目的とし、ハイキング利用のための歩道の維持、森林手入れの作業道を兼ねた自転車道の設置などで、公有地化をはかりながら利用・保全する構想を提案するものであった。そうした構想の実現後、近年(10年前ぐらい)には、施設の利用は少ない様子で、森林は一層繁茂し、歩道を狭め、見通しを悪くしている様子であった。宅地化の進行で、ハイキング道の入口も分からなくなっている。
 かくして野山は消滅していってしまったのであろうか。横浜の金沢近くの住宅地に切り立った崖があり、その上に樹林が見られた。シイ・カシ林にサクラが混生していて、サクラのの花が際立って見えた。野山の行く末もこうした樹林へと変わるのかと眺めたことがある。
 地理学の千葉「はげ山の地理学」あるが、明治時代の西洋人の写真にも各所が禿山となっていることに気づかされ、アカマツ林が広がっているというのである。アカマツの禿山は昔の製鉄であるたたら生産の行われた中国山地に広がっていたことや、製陶産業の盛んだった地域に禿山が多いという指摘である。もっと広く禿山が見られたのは、過剰な草木、薪炭採取によるものとも考えられている。禿山か、禿山にならない状態が野山であったのであろう。野山はアカマツツツジの森林、あるいはススキ草原のイメージがある。野山は禿山からススキ草原へ、ススキ草原からアカマツ林に遷移する過程を前後した植生状態であったのだろうか? ススキ草原の状態を維持するために火入れが行われ、山焼きと呼ばれた。山焼きは戦後にも維持されていた地域もあり、その停止の結果、天然性アカマツ林が広がったといえる。さらにシイーカシ林へと移行した地域も見られ、京都東山や嵐山の景観変化などが取り上げられてきた。ただ景観の変化ではなく、野山が失われ、人々の野山の遊びや行楽、ハイキングの場所が失われたことは問題にはならないのであろうか。
 野山の喪失は、草原の構成種にとっては大きな打撃だったのであろう。秋の七草のような野草は絶滅の危機に瀕している。ワラビやゼンマイ、ワラビ、タラの芽、ウドにフキなどの山菜も少なくなった。利用し、親しんだ草木の自然は、野山の喪失とともに衰退した。高齢の人々は、野山の様々な思い出も多く、野草の再生に大きな期待を持っている。塩尻市の緑の会の活動もそうした野草再現が動機となって始まったのである。