風致と風景 単純な風景

 風景は、視覚を中心にした知覚であること、環境の眺めであることの2点の指摘を重ねただけであるが、「視野に構成された環境の総合した眺めである」といってよいと思う。最も単純な構成が海原の風景、水面と空だけである。水面が大地に変わると、砂漠の風景、砂漠と空だけ、草原の風景、草原と空、これらの単純な風景は、水平線、地平線で空と地上とを分ける。そして、その、水平線、地平線は周囲に開け、視線の無限さを示す。人はこうした単純な風景を好むのではないか、あるいは美を感じるのではないか?単純なものは退屈でもある。壮大さはつかみどころがない。抽象的な形式として「単純」は美の形式に含まれる。その逆の「複雑」も美の形式であるので、すべての形態の単純、複雑はすべて美であるといううことであろうか。ともかく、視野に上下の要素で構成された、地平線、水平線の風景は、壮大であることは確かだ。地球は水面と陸地で構成され、大気層で覆われている。引力と陽光によって支配される世界。地球の表面の普遍的な眺め・・それが単純な要素の構成による眺めといえる。
 しかし、その壮大な地球を感じる風景を眺める人間はあまりにも微小な存在である。その存在を基本的な単位とする考え、個人の自由、生きる権利を原則とする社会が、近代なのである。壮大な眺めに対自する個人、そこに、風景が成立したのである。壮大な眺めを独り占めにして自分の存在を感じ、自分の存在が感じられるから風景を楽しめるのである。風景には希望があり、理想が芽生える。子供の頃、毎日の太陽や空の動き、様々な生物に、世界を謎に満ちたものと感じた。小さな漁師、猟師、農民として、生きることを学んだ。それを誇りに思って、世界の謎に挑戦して大人となっている。単純な風景に籠められた人類の蓄積した知恵は深く、探求は果てしない。