風致と風景 風景の内的要因

 風景の最初の印象は、いつだったか、小学5〜6年のことだったか、風邪をひいて診察に近所の医師が来ていた時、その医師が山の好きな人で、高千穂の朝焼けを見るために朝早く山に出かける話をしたことを覚えている。山の朝焼けの美しさを想像して憧れを持ち、その医師に尊敬の念を持った。もっと小さな時、小学校1〜2年の時だったか、私の祖母が昇ってくる朝日に向かって手を合わせていて、一緒に拝んだこと、その鮮烈な太陽の輝きを覚えている。また、家族で小豆島に行き、寒霞渓という名勝を見に行った時、迷子になって、親を探して山から駆け下りたとき、すばらしい景観の前に不安におののく自分の姿とともにあった、白々しい風景を覚えている。
 結構、風景の印象は幼児の時にもった人も多いようである。しかし、人により、小学生の低学年あるいは高学年にも広がっており、旅行などの非日常的な機会に風景の印象を持つ人もいる。あるいはめったにない稲光、雪、虹、夕焼けなどいつとも知れず、印象を受けたことを思い出すであろう。中学生、高校生になってから風景の印象を受ける人も中にはいる。このような人によるバラつきが何故生じるのか、分からない。しかし、子供時代に風景への出会いが起こっている。風景とは何と聞かれてなかなか答えられないことでもあるのだから、おそらく、出会った印象が、風景であるという認識がないだけであろうか。毎日通った通学路で眺めを風景と意識したことはなかった。校庭にスズカケの木があり、その実を拾ったことは覚えているが、校庭を風景として見たことはなかった。時を経てその校庭の以前に変わらぬ状態を見た時、風景と感じられた。
 子供時代に風景の印象を持ったにしても、それはまれなことであり、子供にとって環境における経験が大半を占めるといってよいのではないかと考える。子供時代、家の中は安心できる場所であり、家の外は、家から離れるほど、緊張が強いられた。一方で、家の中は閉鎖的で、家族の関係による緊張も存在し、家の外は開放的で、友達や魅力的な自然に恵まれた活動の場所であった。家の中は夜、明かりとともにあり、闇とともに眠りが訪れ、安心できる憩いの場となった。一方、家の外は昼に活動する場であり、夜の闇は、見えない恐怖があった。子供時代のこうした環境経験が作用してその後の環境意識が特徴付けられるのではないだろうか?家族の親近さと他人の疎遠さ、家の安心と戸外の不安、空間の閉鎖と戸外の開放、闇の混沌と明るさの明瞭さ、そしてこの対応関係の逆転、知覚の断片が子供の体験の中に環境認識として統合されているのではなかろうか。子供の狭い世界の環境認識を超越して現れる印象となる風景は、遙かな広い世界への予感を呼び覚ますものかもしれなかった。