風致と風景 主体の内面と外界

 個人という意識が強く現れているのが近代である。個人の考えは主観であり、より外界を忠実に(真)に見ようとする所に客観がある。近代の哲学者は主観をいかに客観として見出すかに悩んだのであろう。客観としてとらえられた主観は、主体としての実体を見出し、主体に対する客観の実体として外界を見出すのではないかと考える。
 近代社会を構成する主体として個人、人権の概念があるといえる。個人は社会的に見て、人間的な存在であることが意識され、そのために人間的な環境が形成されているとすれば、主体的な人間的な環境に対する外界は自然的な環境ということになる。これは社会が媒介となる理解であって、個人は社会自体と自然自体に対自することになる。
 個人の人権を認めながら、経済の面では競争関係にあるのが、資本主義社会であり、競争に勝ち残るための粗野な動物的な生命力が個人に要求される。こうした社会の要求は、自然環境との対自における野生的な生命力へ回帰する感覚と同調しているかにもみえる。
 競争社会のもとでの人間の独善的な自然環境への対処は、自然を破壊し、資源として利用しつくすことで、自然環境を枯渇させ、衰退させてきたといえる。人間の独善、文明の独走に対して、自然環境の反撃を恐れ、自然に大きな力を期待することにもなるが、自然の破壊的状態がもたらす災厄は、人間自身が招いているものであるのだ。現状の自然環境に入って、人間の生命力の回復を求めるのは、人間の大きなおごりであるのかもしれない。