森林公園時代の背景

 大芝公園林の遊歩道を散策する人に大勢出会う。多くが高齢者の方々であり、中には夫婦連れらしき人もいる。そうした高齢者の夫婦づれにキノコ取りを楽しむ人が多いようである。中には照れくさそうにして野草を取っている人もいる。大芝公園林は、アカマツ−ヒノキ二段林施業が行われてきており、皆伐による更新によるアカマツの幼齢林からアカマツーヒノキの高齢林まで含んでおり、多様な林相が見られる。広葉樹も混生しており、野草やキノコの生育する条件が維持されている。今、高齢の人々は子供や若かった時に、ワラビやタラの芽、キノコを採りに出かけたのであろう。散歩も忘れて、懐かしさに、連れ合いとともにキノコ採りに興じる姿は微笑ましい。
 十数年前、鳩吹山に歩道を検討する計画があって荒井区の役員の人々とともに山道を歩いていたことがある。アカマツ林の下にタラノキが群生してタラの芽がついていた。壮年の役員達はタラの芽を採るのに夢中になって、もう歩道の計画は忘れてしまったようである。聞けば近年には山に行くことも無くなり、山に行ってもあまり採れなくなったとのことであった。30数年前、伊那山脈を学生実習で歩いたことがある。山火事の跡地なのか、ワラビの群生する山地がみられた。また、酒井先生からウドの採れる場所を教えてもらって一緒に連れて行ってもらったことがある。山地には山菜が豊富にあり、住民の多くが、山菜、キノコとりに山に入ったいたのであろう。漬物をつける木桶に山菜やキノコを漬ける桶を用意している家も見かけた。
 しかし、山地の利用が行われなくなる時代でもあり、植生遷移や植林した森林の生育によって、ワラビやタラの芽、ウド、キノコも採れる場所が少なくなり、熟達した人にしか山菜、キノコの採取は難しくなったのであろう。聞くところ、富県でもキノコ採りに入るお年寄りは特別な人のようである。私が30数年来、伊那で体験してきた山の様子の変化は、それより以前から起こってきたものであろうが、現在、20年前、40年前と大きく相違してきていおり、この変化は伊那だけではなく、より一般的な変化の一端なのであろう。
 40年前の1970年代は高度経済成長が最盛期に達して、経済が下降に転換する時代であった。20年前の1990年代は昭和から平成に年号が変わり、低成長がバブル経済へと転じる時期であり、また、バブル経済が破綻して、経済の低迷へと転じていった。1960年代半ば東京オリンピックが行われ、都市問題が顕著になっていた。その後、森林の休養利用が政策として取り上げられるようになるが、代々木公園の計画、国有林の自然休養林制度、明治百年記念事業などの森林公園の計画が各地で進められた。これは都市問題における緑地減少と都市住民の休養要求の増大だけの問題であろうか?
 高度経済成長は農村にも大きな変動をもたらし、山林利用を衰退させていった。利用衰退によって放置された山林は、里山問題として顕在化し、拡大造林の政策によって人工林化が進められ、里山の転換は急速に行われた。その植林された山林は、木材生産の目的が見失われ、放置されるようになった。山村の衰退が、山林の放置を加速させ、都市近郊では開発による森林の消滅を促進させた。森林公園の計画は、森林の休養利用の目的を提示するものであったが、森林公園の設定によって、それ以外の山林の放置を進めることにもなった。
 放置された山林は、作業に入る通路を無用なものとし、休養のための歩道を消滅させた。植生遷移と森林の生育によって林相が変化していき、山菜、キノコなどの採取も困難となっていった。また、林業作業における機械化と自動車の利用は、林道を不可欠なものとしたが、労働力の不足は作業道を利用した森林管理を省力化させていった。国有林では大面積皆伐が横行し、自然保護の立場からの批判を浴びた。森林公園や自然休養林の設定は、こうした山林の状況から、かけ離れたものであったといえる。
 森林公園とは森林を主体とするものなのか、公園を主体とするものなのかを検証してみなくてはならないが、いくつかの山林にできた公園の印象から、次のようなことが考えられた。放置された山林の一角にできた都市公園は周囲の山林とは行き来できないように区切られている。(北摂山地の公園)あるいは、残された山林を森林公園とした場合には、周囲が切り取られ崖によって隔てられている。(横浜市の公園)また、保護された森林は周囲の皆伐地や植林地に囲まれている。(赤沢自然休養林)地域に広がる森林は、区域に区切られ、公園施設とされてしまう。森林公園が周囲の山林への導入路とはなっていないのである。山地の連続は失われ、隔絶した森林公園の世界が展開する。
 近年の展開の画期的な事例では、こうした森林公園の隔絶を打開している。塩尻市下西条の緑の会は、住民による山林に自然を育成する活動団体であるが、霧訪山の登山路を再生させた所、多くの登山者が訪れるようになった。山麓の森林に野草の林床を育成して、住民の野山の楽しみを再生させたが、他の地域の人々も楽しむ場所になっている。山地と森林の休養利用は、森林の自然の育成の結果、自然に展開しており、育成の場が広がり、利用の場が広がって、より広い山地、森林に連続し、山麓の野草育成地はその入口、導入路の役割を果たすことになった。こうした事例は森林公園のあり様に大きな示唆を与えるものと考える。