風景の主体 現代の農民

 江戸時代までは人口の90%くらいが農民であったといわれる。社会の基盤は農民によって成り立っていた。近代社会の基盤は工業であり、社会の様相は、農村から都市環境へと主眼を移行させたようである。しかし、農村環境が占める範囲は広く、都市環境に対する表裏の関係にある。また、米をはじめ多くの農産物は、安全な食糧として国内生産の価値が認められている。ところが、農業従事者は農村から都市に流出し、農業の衰退を招いている。都市民は所得の向上を目指して都市での居住を維持しようとするが、悪化した自然環境と商品流通によって提供される食糧のもとでの生活を余儀なくされている。
 そんな都市環境の生活を離脱して農民に回帰する人がいる。農民は、農地と自然環境を土台として農業生産を行い、都市住民に食糧を提供する。個々の農民はそれぞれ独立した生活の土台を確保しており、自由業であるといえる。しかし、生産物の販路が流通経済に支配されている限り、規格化された商品の生産者である。また、流通経済から離れて自給的な農業生産者に止まるかのいずれかである。多くが商品生産者の農民であるが、兼業化によって専業農家による商品生産は少なくなり、自給生産者の割合が多くなっていると察せられる。地域活性化における農産物直売店に置かれる農産物も、自給生産者の拡大生産によるものが考えられる。基本的に生活の土台を自給できることは、農民の大きな強みであり、独立の根拠であろう。一方、現代の生活においては、一定の金銭としての収入の確保が必要であり、これを農外収入として得ることは比較的容易であり、多くが兼業化を進めた原因であり、収入のみを目的とするとき農業からの離脱が起こることになる。自給の土台を拡大して、自由業としての農業を展開する可能性に向かって努力する人がいることは、頼もしい限りである。既存の流通機構を利用しながら、あるいは新たな消費者と連結を開拓して、農産物を生産し、供給する。
 自分は、農民ではなく、土台のない都市生活者である。こうした立場から、自由業の農民をうらやましく思い、また、その努力と労苦の大きさを思う。それは日々食べる食糧に感謝の念を呼び起こす。太陽に向かって手を合わせる農民の心と一粒の米の大切さは、明治の文盲の祖母から教えられたことであるが、それは現在の農民への尊敬に持続している。そんな農民の1人、畑君からジャガイモが送ってきた。また、立川君からは2週間に一回農作物を届けてもらっている。二人は高知と信州と離れているが、それぞれの自然環境に直面して農業を持続させる自由農民であると考えている。自分は自然を観照的にとらえるが、彼らは自然環境に直面し、太陽に手を合わせ、雨に救いを感じる、生活体験としてとらえられることであろう。そんな彼らに自分の思いを畑君への便りにしたためた。以下がその文面である。
 畑様、おいしいジャガイモありがとうございます。早速、ポテトサラダにして賞味しました。ブログを読んでいただいたこともうれしく思います。あてのない日記に楽しんでもらえる読者がいることは、大いに張り合いが出てきます。長い間、考えたこと、思いつきのまま浮かんでくることなどを、少し論理立てて見たいと思って書き始めました。こうした断片がつながった時には、もっと大きなストーリーが出来上がる時と言えるかも知れませんが、そのような時が訪れるかはわかりません。大きな自然に接して、小さな人間の営みを意味あるものと感じて、自然の全体を認識したいと願うことも、自然の気持ちであると思っています。気の向くまま、自由な生活を楽しんでいます。また、信州にお出かけの時は、研究所にお寄りください。