風致と風景 眺望景観

 地表面の状態が「景観」であるとすれば、景観の広がりの眺めが眺望である。眺望の視野の広がりの中で地上に広がる景観と天空の広がりを合わせて眺望が成立する。眺望を絵地図として示すと、鳥瞰図となる。鳥瞰図の知覚は見下ろすことによって地上の平面的広がりを眺めることができるものである。高い山の上から鳥瞰図的眺望が得られるが、地上の細部と広がりを同時に眺める眺望はあまり高い山からでは、得られない。また、木々と地形が邪魔して、視野が狭められ、閉鎖されて、全方位の視界、パノラマの眺望は得にくいものである。かっての里近くの山が、禿山であったり、草地であったりしていれば、裏山の山頂から、眺望を目にすることができただろう。
 自分の住んでいる場所を眺望として眺めることには、どんな意味があるのだろうか?子供の頃、山頂からの眺望に晴れやかな開放感を感じ、下方の世界に優越感を感じたが、その優越感を持つ自分自身の微々たる存在に身を縮めた。下方見る家々は、そこに自分の生活する場所であり、狭小な区域の中で、親近感のある空間である。そうした空間を集合した広い外観によって、居住環境の構成が眺められる。
 住んでいる場所からいつも眺める山々は、そこに登ってみれば、下方に眺望景観を目にすることができると想像される。近くの低い山の山頂と遠くの高い山の山頂が重なり合う山々の眺めから、山の頂上に立ったときの眺望景観の相違を示唆している。しかし、そのすべての山頂からの眺望を、実際に体験することは少ないだろう。地域には、際立った山頂がある。そうした山頂を特別な場所として利用することが行われている場合がある。そうした山頂は近年にも地域のシンボルとなって利用されることが多くなるだろう。そこでは、居住環境との位置関係、山頂の眺望の向かう方位と日照との関係、山地の森林の状態などが、利用持続の要因となっているのであろう。信州では、伊那市の高烏谷山、飯田市の風越山、上田市の太郎山などが浮かんでくる。大阪市における生駒山京都市の東山、神戸市における六甲など、北九州の若松は母の実家があるが、高塔山によく登ったものである。
 眺望の良い場所として高台に住むことは、日常的に雄大な眺望景観を楽しむことができる。大地の広がりは、天空の大きさに即応しており、天空の変化は壮大なドラマチックな眺望を演出し、自然を感じさせる。地表の景観は都市環境の市街、農村環境の郊外、自然環境の山地の地形と被覆する森林によって構成されている。こうした景観を俯瞰して暮らすことができる。しかし、その場所は、都市周辺の山地環境を住宅地開発によって、損傷している場合も多い。樹林によって住宅地が隠されれば、その損傷を補うことができるが、今度は眺望景観が樹林によって分断されるのであろう。