風致と風景 風景観照の意識

 風景の知覚が、場所の条件に支配されていることは確かであろう。だからこそ、その場所で知覚される風景は、誰にも共通し、互いに風景の評価に対する同意を求めることができる。上高地河童橋から写真を撮る人々は、ほとんど同じ方向にレンズを向けるように見える。その結果、眺望の良い場所からの写真は共通していることになるだろう。固定的に共通した眺めの場所に対して、眺めの良いと思う場所を発見することがある。しかし、そうした場所も他の人もやってきて風景を眺めていることもあるから、独創的な発見ではなかったかもしれない。時間的な変化(天空の条件)によって眺めが変化し、同じ場所でも一瞬の眺めが良いときがある。その時、1人であれば風景を独占したことになるかもしれない。
 場所と眺望とは風景の場面としては、天空条件を媒介として、場所と眺めの条件を連動し、近景から遠景に広がる空間の一体感を感じるものである。場所に即応する眺めの共通性は、客観的な地表の状態としての景観の反映であり、天空条件による環境への感覚的反応は、生気象学という分野がある。生活過程と自然環境の相互関係は「風土」という概念でとらえられ、生活行動の局面における知覚として風景を意味づけることができる。
 ここで、風景とは環境を受動的に認識する眺めとして理解してよいかが、問題である。風景の知覚に主体的に期待するような独自性、創造性はないのであろうか?風景画として芸術の領域で追求された風景知覚は、写真によって視覚をそのまま記録できるようになった。風景は要因によって再現性のある環境条件を生み出すことで知覚できるもの考えられるようになったといえる。仮想的な空間の中で、演出としての風景の知覚も見出される。
 景観として存在し、生気象学的に感応し、風土として習慣づけられて、受容される風景は、現実社会では逃避的な中に成立するものなのかもしれない。現実に日常生活環境において、知覚される風景は、乱雑な建築物や電線に区切られた天空や汚染された大気、騒音や悪臭などによって、清らかな自然の賜物のような風景から遠ざけられていると意識される。