都市の風致 街路樹

 都市環境における快適性が問題となった時、アメニティという言葉が多用され、都市だけでなく、農村アメニティ、森林アメニティにまで使われることになった。イギリスの都市計画では場所の持つある雰囲気を表わす言葉として、場所の保全のために、役立てられている。イギリス人には都市生活の共通感覚から生まれるものなのであろう。日本の都市計画においては、風致地区指定の制度がある点で、アメニティと風致は同義的な意味であると考えられるが、イギリス人の実感がないのでわからない。まえに、新聞記事であるが、京都の風致地区の街路を舗装することが問題とされたことがある。変化に富む土の道は、確かに風致を構成する重要な要素と住民が実感したにちがいない。当時は自動車が普及し始めた時期であったから、車の通行に舗装は便利となることと受け入れられていた。それに対して抵抗感を持つ感覚はすばらしいと思う。
 長野県内の都市が道路に30年くらい前までは、街路樹は珍しかった。江戸時代の街道に植えられた松並木が残っている場所があるが、明治以降の道路、街路整備の中に、街路樹はぜいたくだと無視されたのかもしれない。伊那市などの例であるが、戦後、新興商店街の装飾として街路樹を植栽した街路がある、たしか、プラタナスだったと思う。樹種からして洋風の町並の演出に役立つものと考えられたのであろうか?しかし、その後、自動車の増加、歩道への駐車、商店街の衰退とともに、並木は落ち葉を生み出し、通行の邪魔となる障害物として邪魔にされるようになった。切り狭められた樹木はかわいそうで、いっそ除去した方が良いのではないかと思われた。しかし、窮屈な場所で根強く生き抜いている樹木の健気さもある。住民の中には折角育った樹木を除去することは忍びないと考える人もいるのであろう。今も痛んだ並木が維持されている。実のところ、老朽化し、衰退し、閉店も目立つ商店街の街路が、単に車の通行路ではないのは、昔からの街路樹も大きな働きをしていると考えられる。通過路から町並を守ってきた街路樹を除去すれば、町並は寂しいものとなるだろう。
 自動車道路の整備が充足し、都市整備が進められるに連れて、街路樹は自動車路の改善と都市美化のために積極的に植栽されるようになった。それとともに、街路樹の生育と落葉などの管理をめぐる問題が大きくなってきた。特に、長野県では長野オリンピックの開催を契機に街路樹導入は積極的であった。松本空港からのオリンピック道路の並木として植えられていたシラカシが一種の失業対策で刈り込みが行われ、造園業者からの批判を代弁したことがあった。樹木の自然樹形を損なう刈り込みが問題であった。また、松本市では街路樹にカツラが取り入れられ、植えられた当初、水枯れによる枯死が問題となった。川崎先生が出て行き、水遣りを徹底する進言のもとで、カツラの並木は息づいた。伊那市のアクセス道路にはシダレヤナギが風で通行の邪魔となり、剪定が徹底することとなった。
 街路樹は自動車道路の景観を改善し、市街の生活環境を守り、改善する。人工景観を樹木の自然的要素で被覆し、都市の無機的環境に生物的環境を提供する。こうした点で街路樹植栽の効果が大きい。しかし、都市はあくまで人工的環境である。人工的環境の弊害を緩和させる点で自然環境が取り入れられることはよいだろう。しかし、本来の都市環境の特性を喪失させるような自然環境の導入は長続きしないし、都市環境にとって弊害となる。どのような自然環境が都市環境に適合するかを考えてみなくてはならない。街路空間の大きさ、樹種の選択、植栽位置など、街路樹がその効果を発揮するために十分な考慮が必要であり、町並の発展と樹木の成長を関連付け、町並の歴史と個性の発揮に寄与させる必要があると考える。