弁証法 柔軟な思考・神部君への回答

 神部君は長年の友人であり、私を先輩として認めていて、時に誰も考え付かない難問を投げかけてくれる。そこで、何とか回答を見つけて返事とする。植物の自然の中での絶妙な季節変化は、植物が思考するからに違いないと考えるが、どうかというのである。その疑問は専門家も誰もが否定してくるが、自分は納得できないというのである。古代の人が、自然の神秘に擬人的に自然物に思考があるとした回答は、まだ、決着がついていたわけではなかったのである。神部君の子供のような純真な思考は、自然の一瞬の変化に大きな課題を悟ったのである。植物は人間以上に思考があり、人間はその自然に対自して、自然の絶妙な思考を学んでいる。と回答したら、誰も答えようとしない疑問に回答してきたのはどうしたら、できたのかという、新たな難問が返されてきた。
 実は私も同じ大きな難問を抱えた時に、それを質問して回答を得られない悩みを持っていたので、この難問に回答を考えることにした。しかし、この回答は疑問に対する仮説であり、仮説がまた疑問となることだといえるだろう。しかし、疑問のままに止まるのでなく、即座に仮説となる回答を考え、さらに、その回答を疑問として次の回答を考える。この過程が思考であるのだから、思考の第一歩の仮説というわけである。仮説なのだから、回答に半信半疑でかまわない、またそうでなければ困る。疑わしいことをいうなでは、思考は始らない。大いに疑って次の回答を思考していけばよいのだと柔軟に思考する。神部君、こんな回答で申し訳ない。
 すべてを疑うことは、懐疑主義といわれる。しかし、その懐疑は何に向けられたものなのかを考える必要がある。すなわち、すべての事物の存在の根源となるもの、自分自身の存在、そして、自分と存在の根源はどのように関係するのか、どうあらねばならないのかと自分の普遍的な根拠を求めるのである。簡単な信念や、表面的な観念に止まることは、独善と偏見に陥りやすい。存在への疑問、あるべき姿を思考する方法として、弁証法を確立し、古代哲学の元祖となった人がソクラテスと言われている。私は哲学者ではないが、哲学が、知ることを愛するものであるとされた点で、知性的でありたいと思い、弁証法に従うのである。ソクラテスは、詭弁家として活動したソフィストと間違われたが、従容として死んでいったといわれる。独善や偏見を捨て、知性に従うことは、仮の自分を捨て去り、真の自分を見出していき、死は最終の結論でもないのだ。その死は、追求し続けることが、自分自身なのだということを、示しているようである。また、弁証法が詭弁に終わらないためにいかに真摯な追求が必要かを表わしている。柔軟であると同時に固い信念がなくては弁証法による展開は不可能である。