風景の主体 山村に生きる人々

 今、県自治研の和田さんより依頼された原稿に頭を悩ましている。山村に起こった風力発電施設の建設に関する問題である。忘れられた山村が、大企業や国の施策に大騒ぎになり、しかも、自然環境が破壊され、静かな生活が脅かされる被害者となる。地球環境のために我慢をという言葉に施設建設に喜んで賛成さえする人もいる。
 私もかって、この村で起こった南アルプススーパー林道建設に自然破壊を反対する運動に加わっていたのだ。奥地林開発のために大規模林道をつくり、国立公園の指定される理由となった原生林を破壊するものだった。たまらない程の愚かしい人為に憤りを感じたのが動機だった。
 そして、そこで知り合って共に行動した人に大鹿村の小林夫妻がいる。その後、長谷村で村おこしの活動が展開し、内発的な住民主体の運動と考え、大学のグループで研究対象とすると同時に、住民の学習となる公開講座に協力していくことになった。5年間継続したが、その最後のまとめの講座に小林さんに話をしていただいた。その時の言葉で「野に立って生きる」が強く印象に残っている。実際に厳しい山村の中で、夫妻と子供さんとともに草地を作り、牛とヤギを飼ってチーズを作って生活している。
 公開講座は大学教員、村外の人だけでなく、講座参加者の住民の中からも講義担当者になってもらっていたのだが、非常に熱心だった住民に保科さんがいる。カラマツの植林地を育成して林業経営の可能性を切り開いた人で「森によって生きる人」といえる。保科さんはその林業技術で島崎先生の森林塾の講師を勤めるほどの人である。
 公開講座との関わりは5年間で終わった。一応の山村活性化の課題を一巡したためであるが、村は国による大規模なダム建設の問題が起こり、そうした建設に抗しきれないで、受け入れる住民の立場にやり切れなさを感じたためでもある。そして、昨年から、風力発電建設の問題が起こって村の人々の多くが建設賛成に署名せざるを得なかったのである。
 野に立って生き、森によって生活する、小林夫妻や保科さんは、山村住民の中で類まれな存在である。しかし、明治時代に誇り高い自立心を持った山村住民に接したことをウェストンが記録している。山村の豊かな資源と厳しい自然環境の中で孤立的に生活していた人々だからこそ、そうした人格が育まれたのであろう。そうした山人の子孫に大平山荘の竹澤さんがいた。実に昨日、後を継ぐ娘さん夫妻より喪中であることの知らせを受け取った。竹澤さんは、北沢峠に山小屋を最初に開いた長衛の長男であったが、北沢峠下の東大平に山小屋を自力で立てたのである。戸台の川原から東大平まで材木を担いで上がっていったそうである。林道反対の渦中に一升瓶をもって話しにきたのが、最初でその後、南アルプスに行くたびに、泊まったり、顔を出していろいろの山の話をお聞きしたのである。物静かで、黙って登山道を美しくし、苦労は言わない、優しい思いやりのある人であった。
 ある時、大勢の年配の集団が小屋に入ってきて、親しげにしている所に遭遇した。竹澤さんが私を紹介すると、いっそう親しげにして、持ってきたおはぎを勧められた。聞けば、美和ダムの建設で愛知県に移転した人々であったのだ。その後、伊勢湾台風に遭遇して非常な辛酸をなめたということである。竹澤さんも住居を伊那のみすずに移転せざるをえなかったのである。
 長谷村の明治以降の歴史を振り返って、村民は多くの辛酸をなめてきたのである。長谷村は入野谷と呼ばれ、高遠藩に支配され、山林の利用が制限されていた。明治になって多くの山林は国有林編入され、村民の入会的利用の範囲は制限されてしまった。国有林林業経営のもとで村民の雇用も行われ、森林鉄道が建設され、伐採事業が進んでいった。しかし、昭和30年代には森林資源が枯渇するようになり、開発は奥地へと進められた。また、次第に雇用も減少していった。現在はダムの計画のある三峰川源流域の森林はほとんど伐採され尽くされたといっても過言ではない。現在はもう事業もなくなり、管理する人も広い区域に1人だけとなっている。
 戦後に、長野県の総合開発事業として長谷村の美和ダム建設が最初に取り上げられた。村は賛否で非常な対立がおこり、ダムの建設によって多くの住民が離村することになった。建設に代換する農地のための水路建設に村の借金が生じ、その捻出のために、鹿嶺高原の土地の一部が外部企業に売られた。また、ダムは下流部の災害を減少させたが、新たに上流部に災害を生じさせ、また、ダムは大量の土砂の流入によって、その機能を低下させていった。発電事業が県の企業局に受継がれて行われたが、企業局の経営悪化で丸紅系列の会社に売却されたのである。その会社から鹿嶺高原から入笠高原に至る尾根に風力発電建設計画が持ち上がっている。
 スーパー林道の建設、戸草ダム建設計画、風力発電計画と村外から持ち込まれる開発に村民は動揺させられ、さらに孤立して自立する地歩を失っていったのではないだろうか?そうした中にも山村の残された資源を見直し、山村住民の誇り高い生活を見出している人々がいることは、大きな救いである。