風景の主体 子供の世界

 子供の通学風景、子供のの叫び「あ、校長先生」。交差点にやさしいおじさんが立って、交差点を渡る子供たちに微笑みかけていた。続々と学校へと向かう小学生の群れ。それぞれ、母親から送り出されてきたことも忘れたように、仲良い友達同士が何か、話をしている。夢多き子供時代、今思えば、夢の中に生きた子供時代、どんな夢だったのかも定かには分からなくなった。しかし、今の子供も夢の中に生きているのだろうか?優しい校長先生も夢の世界なのであろうか?現実という大人の世界から守られて、子供の夢の世界があるのだろうか?
 昔のことを語るのは年寄りの特権であると考え、昔を語ってみよう。道には子供があふれていた。夏には小川にも子供が群がっていた。木があれば登っている子供がいた。道、川、木で遊ぶ子供にはそれぞれ遊びごとの名人がいた。家に帰ることも忘れて、日暮れまで遊び呆けていた。頭の中は遊びで一杯だった。新しい遊びを見つけた子供は英雄で、大先生になった。こんな楽しい日々は、田舎から都会に引っ越したことで終わった。道には子供がいたが、遊びに夢中になる子、友達はみつからなかった。川には魚もトンボもいなかった。登るような木もなかった。楽しい夢の時代は終わった。
 都会に夢がなかったわけではない。都会といえば母の実家があった北九州若松である。高塔山にはケーブルがあり、上には河童地蔵があった。実家は叔父が営む魚屋であり、祖母が健在だった。戦後の貧しい食糧事情で叔父の家は豊かに輝いて見えた。大量の鮮魚が毎朝、近くの魚市場から仕入れられ、捌いて店頭に並べられた。毎日のお惣菜に馴染みの客が訪れ、にぎわっていた。そうした魚や客の様子に目を見開いて眺めていた。洞海湾の石炭運送を中心とした船会社の事務所が並び、渡し舟に通じる本通りは人の行き来で賑わっていた。ランプ屋に竹屋があって、子供達はそうした店々の間を抜けて遊んでいた。田舎にはない輝きと豊かさと活気に、あこがれの都会であった。その若松も祖母がなくなり、叔父もなくなった。洞海湾の活気もなくなると汚染された湾が残り、それをまたいで若戸大橋が自動車時代の到来を告げ、渡し舟の本通は火が消えていった。巨大に見えた建物も小さく見え、輝きを失っていた。
 誰にも子供の頃の世界は夢のようなのであろうか?また、その夢の世界はいつか瓦解して、現実の世界に呼び覚まされるのであろうか?子供の軟らかな頬や楽しげな眼差しは夢の世界をもっている証拠なのであろうか?そうした子供達が夢を失わないように、親や先生は通学路に立って悲しい事故に会わないように見守っているのであろうか?道に自動車が通り、子供は押しのけられている。小川も無く、魚やトンボを追い求めることもできない。上って遊ぶ木も見られない。しかし、公園の広場や樹林の木陰が、今の子の遊びの場なのであろうか?ならば、公園は子供の夢の国なのか?いつか、公園を脱して現実に目覚めるのであろうか?子供の夢はいつか壊れていくにしても、長く続くことが望ましい。大人達は子供達に夢を抱く場を守り、生み出すことができるのであろうか?