風景の主体 自然保護運動

 戦後、電源開発などの資源開発が各地で計画されるようになって、景観資源が危機にさらされるようになると、景観保護のために立ち上がったのは学者、知識人であった。尾瀬ヶ原電源開発に対する自然保護運動は、日本自然保護協会を生み出し、その最初の会長が田村剛であった。これは国立公園における自然保護を再認識させ、資源開発と対立する立場を明確にした。
 しかし、産業の復興期には圧倒的な開発志向の中で自然保護の立場は後退し、妥協を強いられた。自然の休養的利用でさえも、観光的利用として観光産業の開発へと転換し、自然保護と対立するものとなった。国民宿舎国民休暇村などの休養政策も観光開発の一部に組み込まれていったといえる。多くの景観資源が破壊の危機にさらされた。
 高度経済成長への産業開発の高揚は、生活環境を阻害する公害問題を招くにいたり、生命・生活を守る住民運動の展開は、公害への抗議とともに自然環境の持続の必要が意識されるようになった。生活環境に自然環境が結合して、住民や漁民による自然保護運動が展開するものとなった。しかし、地域の経済的発展が住民の所得を向上させた点で、住民内部に開発と自然保護の対立を生じさせるものでもあった。
 高度経済成長持続のための列島改造の国土計画は、開発資本の過剰な投資をもたらして、観光開発を加熱させ、景観資源の危機は顕著になった。これに対して、自然保護協会などの従来型の自然保護活動を補うものとして、都市住民による自然保護運動が盛り上がり、各所にできた自然保護運動を支援するとともに、全国的な連合組織を形成するようになった。しかし、都市住民と知識人の運動は、時に、地域住民の意向に反して、過激となり、批判を浴びることにもなった。一方で、背後の開発主体である企業は、批判を浴びることなく、住民側にあるように見えた。
 高度経済成長期の終焉とともに環境保護の重要性も認識され、開発が抑制されるようになった。地域住民は経済的低迷の中で、自助努力で低迷を脱出する必要が生じた。
 やがて、バブル経済とともに大規模なリゾート開発ブームが再燃してきた。莫大な開発投資と政策支援のもとで、かってない巨大な規模の開発が急速に進展した。しかし、これは限られた地域であり、さしたる反対運動も、地域住民に開発推進運動も起こらなかったといえる。そうした葛藤が生まれる以前にバブル経済の破綻が生じたからである。
 しかし、長野県で見るならば、冬季オリンピックを開催する間に、開発ブームは持続し、特にオリンピック会場として岩菅山の開発が論議を呼んだ。結局、資本側の撤退によって開発は阻止され、志賀高原のスキー場開発は抑制された。オリンピック開催後のバブル経済の破綻の影響は、県内観光客の激減をもたらし、観光地の今日に至る低迷を招いている。
 しかし、大規模リゾート開発が行なわれなかっただけ、破綻の影響が少なかったといえる。といっても、地域内発型の観光地にまで低迷は及んでおり、その再生は深刻な問題である。新たな集客の可能性が模索されており、その中には地域資源を活かして、自然景観、環境を最大限に活かす開発が模索されている。発展型から持続型へ、自然破壊から自然利用へと転換が見られるといえる。