風致を造園する方法論 日本庭園

 平安時代に現れた浄土式庭園から、夢窓疎石の庭園、禅宗枯山水小堀遠州の鶴亀の庭への変遷は中世から近世への急速な展開であったといえる。庭園の精神性の極致として夢窓疎石の庭園と禅宗枯山水を位置づけてみると、対比的な物質的外界が考えられる。
 日本庭園は浄土式庭園、寝殿造系庭園、書院造系庭園に分類されるそうであるが、平安貴族のもとで生まれた寝殿造系庭園は、宮殿の前庭を儀式の場所から遊びの場所へと転換させたものといえる。貴族が荘園制に寄生し、社会の主導権を持ちえなくなり、密教に救いを求めて、宗教的世界へと篭ろうとした時、建築内部の宗教空間を庭園に広げて浄土式庭園(平等院など)が作り出された。
 こうした閉塞的空間は精神性への逃避であったといえるのに対して、荘園制から地方領主としての武家社会へと転換し、南北朝の争乱が終息するに当たって活躍したのが夢窓疎石であり、庭園の改革者となった。すなわち、逃避的空間であった浄土式庭園を、宗教的な精神性が外界に向かって投影する庭園へと転換させたといえる。天竜寺の室内の竜の絵の眼光と庭園の正面の枯山水の滝とは対応し、外界に突き抜けた精神性を表示している。海を表わす池泉は竜の躍動する雲海へとその様相を変え、庭園を精神性そのものとして昇華させている。
 精神性とともにある庭園は禅宗の僧坊の庭園へと受継がれ、書院造系庭園が生み出したと考えたらよいのであろうか。書院自体は僧侶の坐臥する部屋であり、僧侶の修業による悟りの精神性が表明されるにしても、物理的空間は私的な空間である。その精神性は自己満足の主観的なものに終始する可能性がある。しかし、本来儀式の場であった本坊の前庭が、山水画の世界として示されることによって、宗教的な精神性が来訪者に開示されるものであったといえる。
 戦国時代の争乱が将軍による統治に向かって変革される中で、上下の秩序を、精神として様式的に表わした庭園が生み出された。これが、小堀遠州の鶴亀の庭ではなかったのだろうか?精神そのものが外界の秩序に支配され、封建時代にふさわしい現実的な庭園を生み出したといえる。
 近代における西洋文化の導入の中で、日本庭園は西洋庭園と対比されるものとなった。西洋庭園は近代につながる歴史を持っているのに対して、日本庭園は近代から断絶し、伝統的様式としての日本庭園に終始している。一方、和洋折衷などの努力がなされ、近代的生活空間に即応した日本庭園の展開も見られる。しかし、個人が自然と社会に対自して、高い精神性を喚起した夢窓疎石の庭園を継承しえていないと感じるのは私だけだろうか?

参考図書
宮元健次著「日本庭園のみかた」
枡野俊明著「夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧」