森林風致 それは何か

 森林風致 それは何かと聞かれる。あれこれ言ってわからないと言われる。私は口下手なのだろうか?私自身、森林風致がわかっていないのかと自問する。しかし、副理事長は明快に提示することができる。これはそれぞれで考えをだしあって検討する必要がある。その上で、森林風致計画研究所の課題である「森林風致」の定義が提示される。
 森林風致は森の中に入ることによって実感される。森の中の環境と人の感覚との関係によって成立しているといえる。森の外から森の内に移動すると、感覚は異なる。森の外の感覚と森の内の感覚の相違は何なのか?森の内外で環境の相違は何なのか?が明らかとなれば、森林風致の実感はどんな感覚なのか、その感覚は森林環境のどのような要素によってもたらされるのかが、明確となるだろう。
 新島らの「森林美学」には森の外の影響(光線)が及ばないことが、森林風致成立の条件であることを示唆している。塩田は林内を囲繞景観の範疇に含める。中村は至近景、近景の知覚として特徴づけられると示唆している。私は林内環境の体感を主観的に記述して森林風致の概観をとらえようとした。フォン・ザリッシュの「森林美学」ではロマン主義の風景観(ギルピンなど)のもとで森林美の意識を明らかにして、森林育成に活かそうとした。さらに清水は森林風致を分析的に明らかにすることに取り組んでいる。
 フォン・ザリッシュの森林美学において森林美は施業林に成立させることが目的とされた。施業林における森林美は、森林構造によって成立する。一方、新島らの「森林美学」では特に樹木美を取り上げている。樹形から枝葉や芽の状態までの樹木細部にまでの知覚が樹木美の可能性として提示されている。こうした「森林美」から「森林風致」が問題とされた点はどこにあるのだろうか?
 制度としての「風致地区」「風致保安林」「国立公園の風致・景観」として「風致」が取り上げられている時、風致は場所の状態を表わし、主観的な感覚を場所に付随する客観的な性格・特徴として表示することが問題となっているのではないかと考える。場所の瞬間的、短期的な変化による印象を排除して、場所の定常的で固定的な環境から生まれる感覚を、共通意識として取り上げようした点に、風致の必要があったのではないだろうか?
 では、森林における定常的な環境としての森林構造によって生じる感覚が風致といえるのか?その感覚は主観的であるにしても、共通意識となるものであるのだろうか?森林構造が客観的に認知されることは、共通意識といえるはずである。
 その森林の季節的変化も共通意識となりうる可能性があるが、森林体験の頻度が季節変化全体の認知に差をもたらすだろう。気象変化、1日の日照変化の認知も同様であり、客観的な認知に到達する可能性としてはあるが、森の中で生活してでもいない限り、時間的推移の変化を体験することは困難であり、知識とその理解によって共通意識となるかどうかの差異となるだろう。
 林内の場所ごとの森林構造の変化、森林を構成する要素の相互連関においても、知的な認識として共通意識の可能性はあるが、人による差異も同時に想定される。
 森林風致は林内の場所ごとに瞬間的条件と注視による印象によって変化する一場面を主観的に感じるとともに、場所を構成する森林構造の連関性、森林構成要素の相互連関、時間的変化の循環などを包含した森林構造の客観的な認識によって共通意識に到達する可能性をもっている。その森林構造によってもたらされる空間が与える全体的な感覚が森林風致といえるのではないだろうか?