場所と場面の構造 都市のイメージ

 都市のイメージの題名の著者はケヴィン・リンチであるが、空間計画の展開のために環境心理学の基礎を持った研究を行うことによって、環境の認知に大きな貢献を行ったとされている。イメージ・マップ法などの端緒を作るものでもあった。
 松本市の都市計画の関わりがあったことと現在、居住していることによって、住民の1人として都市のイメージについて考えている。都市計画は県の審議会で中心市街地の空洞化に伴う再整備での議題であった。老朽化し、利用が減少し、衰退した都市空間を整備する上で、分散した駐車場を公営化した駐車場に集中させ、狭小な商店群を整理して、広い街路と新しい商店街を形成させる計画であった。計画的整備によって都市空間の機能性と景観調和をとりもどすことができた。その空間の中で行動する人々、機能的空間に適合した利用が展開しているように見える。その個々の利用者は、この都市空間をどのようなイメージで認知するのか、イメージが人々の行動にどのように作用しているかが、環境心理学の課題となり、新たな空間計画へ連続していく。こうした一部の都市空間のイメージは、松本市全体のイメージの形成にどのように関連するかが、さらなる課題となる。空間的なイメージは、都市の歴史、時間軸と交叉してくる。
 城下町の時代は、士農工商の身分秩序のもとで、都市空間は農村空間を支配する関係にあった。都市空間のシンボルが松本城であり、城を中心に武家町が構成され、商工の町が附属していた。都市空間として面的な広がりは限られていたが、市街の街路から、農村空間と他地域に連結する街道が周辺に延長していた。商工の町はこうした街道の交通に依拠して、一定の発展を遂げていったと考えられる。明治になって、封建時代の支配関係が払拭され、城のシンボル性が失われ、支配層の空間は衰退していった。一方、農村部では養蚕などの商業作物の生産拡大が進行し、自給経済から流通経済へと移行していった。これに対応して都市部の商業さらには工業の発展が見られたといえる。交通網が整備され、交流は一層拡大していった。都市中心部は、産業都市として活気を取り戻し、衰退した空間を都市化させ、さらに周辺部へと都市拡大を遂げていった。
 戦後、都市の集中的発展は、中心市街を高密化させるものとなり、自動車の普及とともに、交通混雑を招くようになった。自動車の普及は、やがて、郊外化を進め、住宅地、工場の拡散を招くようになり、さらには、郊外への大規模店の競争的な進出が顕著となった。それが、郊外化を促進させ、都市空間を農村部に拡散させ、農村地域を住宅、工場、商店の混在する地域に変質させていった。それとともに、中心市街地はその中心性を失い、衰退して、空洞化が進んだ。
 中心市街地がその求心力を衰退させて、利用が減少し、商店の老朽化が進んだことは、結果的に見れば、革新的な再開発の可能性を増大させたといえる。過密な空間は、広場、広い街路とゆとりある店舗の配置をもたらした。老朽化した建物が歴史的建造物として再評価され、都市の骨格に歴史的な城下町の構造が活かされ、城のシンボル性が回復してきたといえる。近代的空間に調和した歴史空間が構成されるものとなった。都市住民の生活を基盤とした都市空間、その都市空間における住民生活の交互関係が、成立しているように見える。こうした都市空間と一致する都市のイメージを住民は共有しているのであろうか?
 混沌とした都市の拡散は持続し、都市と農村の境界を混乱させている。中心市街の求心力は、高層マンションなどによる住民回帰にも関わらず、衰退の兆候が残されている。しかし、市街に近接して北側、東側の山地の存在は、自然の境界を生み出しており、美ヶ原の山頂や西に北アルプスの稜線の存在は、都市周辺のイメージとして大きな資源である。それだけに中心となる松本城のシンボル性は大きいといえるのだろう。