風景の要因 水の作用

 水は川の流れ、湖や海の水面となる風景の要素である。しかし、液体から気体、また、固体へと変化して地表から大気、天空へと上昇し、雲となり、天空から、雨や雪となって地上に戻り、地表を流れ、集まり、あるいは地下に浸透し、と大気と地表を循環している。その循環のエネルギーは大気とともに陽光から与えられる。
 風景要素としての水は水面として現われる。地球の表面の70%が海であるが、人が陸地で生活する上では海の風景要素は海岸、島、船を場面ろした風景である。茫漠として広がる海は、重力の作用で水平に保たれるが、水平が知覚されるのは水平線である。水面は波によって浮動し、光を反射して変幻とした変化を生み出す。激しい波は逆立ち、波頭を砕け散らして、下降し、また、上昇する。嵐には海を行く船が翻弄される。水面の波の観察はレオナルド・ダ・ヴィンチが行っているが、画家にとって海の波は描くのに困難な課題であったそうである。また、嵐の遭難の風景は風景画家ターナーの選択した画題の一つであった。打ち寄せる波とそれを和らげる浜辺もターナーの画題であった。打ち寄せる波に対抗する陸地、取り残された岩礁が点々と海に沈む姿、それは岬である。岬と浜辺は対になる地形である。こうした海と陸地の動的関係が、天龍寺の庭園に縮景あるいは象徴的に再現している。この庭園を造った人が、夢想疏石であった。長い自然の観照によって得られた風景であろう。
 この天龍寺の庭園には龍門瀑という枯れ山水の滝がある。池の鯉がその滝を昇って天龍となる、禅の修業の寓意を示すものだという。龍が水中から天空を駆け巡るという話は、奈良、平安時代に伝えられるが、室町時代には現実感のない象徴化された存在となったといえる。龍は中国からの伝承であるが、呪術的な世界観における地上に対する天空は地上の民を支配する自然の神の領域であり、これを呪術によって操作できる支配者の権力の源であった。皇帝の支配が乱れ、自然が制御できない状態として、天空を駆ける龍の姿があったのではないだろうか?地上の民は、支配者の乱れを正す、天空の畏敬として龍が姿を現すことを願ったのではないか?天龍寺庭園の池は龍の憩う浴龍池であり、その龍が天へと駆け上る滝でもあった。それが地が海へと没する岬の景と重なり、陸から海へ海から天への水の循環をも連想させる。こうした水の擬人化としての龍が浮かび上がる。
 農業にとって太陽と水となる雨をもたらす雲とは不可欠な要素であるが、太陽と雲とは相反する要素として天空で相克している。雨は地を流れ、川となる。川を堰きとめ、池を作って貯水する。細い水路に分かれて水田を潤し、広大な水面と湿原の草原を作る。
 都市の住民は、飲料水として水を利用する。豊富な地下水は、湧水となって清冽な飲料水を提供する。