都市の風致 プラタナスの思い出

 プラタナスの思い出は、小学校の校庭にある。教科書も兄姉や近所の人から譲り受けて使った時代に入学に出かけた。まだ、空き地が麦畑だった時代、子供は麦畑に入って怒られていた。校庭が芋畑になっていた時代、戦後の混乱は、小学校に入った時代から急速に経済の回復に向かった。ある冬の日に校庭を取り囲むプラタナスの大木に気がついた。丸い実が落ちていて、宝物のように思えたが、手に取ると少し痛かった。子供同士で投げて遊んだが、あまり遠くには飛ばなかった。校庭の土は固くて相撲をとって脳震盪を起こし、頭にコブができることもあった。
 プラタナスは周囲がツツジアカマツの幼樹がまばらに生える山地であったので、大木に感じるとともに、鈴掛の木の呼び名からも異国を感じた。落ち葉が大きく、カサカサして、外国産とはしらなかったが、異質な感じを受けた。小学校の校門の縁にシイの大木があり、横に張った太い枝は子供が登って遊び、ターザンごっこをしていた。しかし、シイの木に異国を感じることはなかった。
 社宅に並ぶ団地に住んでいて町に出ることはほとんどなかったので、町の印象はほとんどない。おそらく、街路樹は無かったはずである。街路樹の存在を意識したのはいつのことだったか、中学や高校の頃、関西で過ごしたが、街路樹のある通りは、どの町にも記憶していない。「友と語らん、鈴掛けの道 通いなれたる学びやの道」の歌を小学校時代をなつかしく思いながら、歌っていた。街路樹は札幌の町で意識した、「アカシアの雨に打たれて、そのまま死んでしまいたい」という歌詞の歌が流行し、期待に満ちて、その並木を見た。大通りのハルニレの大木に比べて、4月の雪どけの中で、あまりにもみすぼらしいニセアカシアの並木であった。歌のイメージからあまりに離れていて、本当のアカシアはどこにあるのかとずっと後まで疑問だった。しかし、ニセアカシアの大木の育つ崖の斜面に住んで、ニセアカシアの葉が夜は折りたたまれて垂れること、花が無数につき、芳しい香りがあたり一面に広がることから、とても好きになった。しかし、それが外国産であることに違和感が残っている。
 中国園林の見学と交流の旅行に加わった時、蘇州、杭州で街路樹はプラタナスであった。幹を切って枝分かれさせているため、緑陰が街路全体を覆って、緑の回廊を作っていた。革命直後から都市の街路に並木が作られたそうであり、報告書に並木の植栽は、時代の変化を表現する手段であったのではないかと記述した。フランスを旅行して、パリでは凱旋門を中心に、八方向の放射状街路が著名であり、その軸線はマロニエの並木となっている。南仏では運河沿いの街道がプラタナスの巨木の並木となって、絶対王政の権威と経済流通の一致を見出した。また、セザンヌの郷里のエクサンプロバンスでは、街路のプラタナスの巨木が自由な枝の緑陰を作り、その下のカフェテラスに人々が憩っていた。
 長野、松本、伊那で見かけたプラタナスの並木は悲惨だった。刈り込まれ、幹に瘤のついた萌芽枝が伸びてできる樹冠は、緑陰を形成することもなく、風化した商店の看板を覆い隠すだけ、電線が樹冠の上部を走り、狭い歩道に押し込められた並木。そんなに傷めるのなら何故、街路樹を植えたのであろうか?伊那の場合、当初、街路樹は商店街の繁栄と環境改善に歓迎されたとのことである。しかし、落ち葉、車の出入りに邪魔者となり、幹に瘤がついて出る枝の醜い姿となってしまった。松本は広い街路に整備され、電線も地下に設置され、並木はケヤキなどの種類に変えられた。日本在来の樹種が珍重されるようになって、プラタナスの並木は少なくなったのではないか。時代の変化を、並木が表現し、新たな時代が生まれてきたことを示している。