風致と風景 農村風景

 農村風景は都市の周囲に存在しているが、郊外の混住地域に隔てられ、幹線道路沿いには延々として市街が取り囲み、純農村の風景に接することは少ない。混住化の程度の少ない農村地域も生活の都市化の影響は集落の建物に古い建物が一掃されて見られる。家屋に関する限り、石置き屋根や茅葺の古い民家は見ることが難しく、広々した敷地の都会風の住宅を見ることが多い。道路は舗装され、水路はコンクリート造りとなり、かっての材料を自給自足して手造りであった環境は失われ、農民の労働の肌触りを感じることはできなくなった。農地も広い区画と直線の道路と水路で圃場整備され、機械を運転して耕作されている。水田や畑、果樹園やビニールハウスが見られ、専業化などの農業生産の状況を示している。こうした風景こそ現代的な農村風景といえるのであろうが、都市化、工業化への変質を感じざるを得ない。自然環境を利用し、自然環境に適合して、二次的な自然として持続した農村環境はどこにあるのだろうか?
私の小さな頃、水田にはホタルが飛び交い、秋にはイナゴを採り、水路は魚が群れを成し、水際の草むらに網を入れると、魚ははねてきらめいた。水路を伝って魚が水田に入り込み、産卵する蛙の卵とともに、様々な昆虫がうごめいていた。稲にトンボがとまり、ミズスマシが波紋を作った。水田に農薬が使われるようになって、立ち入り禁止となり、生物も姿を見かけなくなった。お百姓さんからよく怒られていたが、そのお百姓さんの姿も水田に見ることが少なくなった。静かな誰もいない水田は、ただ稲穂が育つことだけを待つ栽培地なのか。
 農家の人は几帳面だ。水田の畦畔の草刈に勤しみ、畑の雑草を抜き取る。庭には草一つ残さない。草刈り機が朝早くに音を響かせ、春には土手の枯れ草を焼く煙が上がる。しかし、かっては草刈の草は山羊、牛などの飼料となった。また、フキなどの食料も採取され、薬草を見つけることもでき、野草の花を楽しむことができた。今は帰化植物などが混ざる雑草にしかすぎず、その繁茂は草刈の労力を増やすものとして嘆かれる。
 農家の庭は粛然とした土間の戸外の仕事場であった。時に縁側で社交の場が生まれ、結婚や葬式の儀式の場ともなった。農業から離れ、居住を中心とした都市的生活へと移行していくと、仕事場の必要はなくなり、結束を失った家族の趣味の場として庭園や花壇が造られた。かっての庭園は隠居の居間を慰めるものであったが、形づくられた庭木や華やかな草花に全面が覆われてしまった。開かれた庭は閉鎖的となり、境界や入口が堅固となった。
 集落はこうした家々が集まり、道は人々が溢れて、交流する場であった。子供達が遊び、群がる場所であった。庭は道との隔たりが無く、人々は道によってつながっていた。道はお堂や神社につながり、人々の共同の意識を喚起した。人々の結びつきが失われ、道は自動車の通行が人々の交流を押しのけた。家々は分断し、お堂はその意味を失った。神社はその尊厳を失って、共同の広場は、単なる共有地となった。
 かっての農村風景の再生は困難であろう。もう、以前のような農業の形態は無く、住民の生活も都市化している。様相を変えた農家、道、農地の風景に違和感を覚えながら、残された神社に抜け殻の空虚さを感じる。単なる沿道の家並みにしか集落を感じられないのは、なんと寂しいことであろうか?
 農村集落の盛衰を人口の増減として見れば、混住化の有無が左右しているといえるのであろうが、増減が無いことが、集落の持続ということであるのだろう。増加は市街化を意味し、集落の変質を示している。減少はまさに衰退である。持続する集落によって農村風景が維持されていると考えれば、盛衰のふるいがかけられて、持続する集落は減少するばかりであるだろう。都市の衰退による外圧の減少は、農村風景の持続にとっては良いことかもしれないが、農村内部の衰退を止めることにはならない。
 混住化して市街地に飲み込まれた集落、農地は市街地に変わるけれども、かっての道、古い農家の敷地、神社などが集落の痕跡を残している。集落は消滅したいるけれども、こうした痕跡は都市環境を味わい深いものとしている。かっての集落住民は、新しい住民と協力して地域の環境の持続に努めながら、密かに痕跡となった祠や神社に昔をしのび、地域の担い手であったことを誇りに思っているのではないだろうか?