風致と風景 山地風景

 山は森林で覆われていることは、平地に住んで山を眺める人には当然のように思われている。逆に森林が山にあることも当然と思われて、山林という言葉となるのであろう。平地林や河岸林、湿地林などは、珍しいものと思われるのである。しかし、山にも森林がなかった時代があり、千葉の「はげ山の地理学」や、詳しい内容はしらないが、本多静六の「アカマツ亡国論」もある。江戸時代の伊那谷の絵図面には、山麓や山の下方には、草山、柴山などとなり、山の高い部分がヒノキなどと記入されている。戦後、直後の山で遊んだ経験からもはげ山は実感できることである。山林は、山の奥や上部に見られるものといえた。そして、特に用材として価値ある森林は、領主などによって保護されたのであろう。
 山の以前の風景は草や潅木の疎らに生えるはげ山で、広々した眺めとなっていた。六甲山は、小規模な山脈の形状をなして神戸から芦屋までの裏山となっており、ハイキング地として利用されていた。はげ山であったことは、山の地形を際立たせ、初夏にはツツジが山を彩り、住宅地に迫って雄大さと親しみを見せていた。神戸は明治になって外人の居留地となり、港が整備されて発展した。山麓の高台に異人館の町並が残り、六甲の山中にも別荘、ゴルフ場、牧場が見られ、明治の開国時からの洋風化の影響が残されている。六甲が瀬戸内海国立公園の一角に加えられたのも、新たな近代風景として意識され、また、利用されていたからであろう。はげ山は荒廃した風景であるが、草原となれば雄大な、洋風の新たな風景として意識されたのであろう。田中正大の「日本の自然公園」において雲仙の高原風景が外国人によって親しまれ、やがて、日本人にもその風景が楽しまれるようになったことが、書かれている。六甲と同じ事情が考えられる。
 しかし、柴刈、草刈場として利用されなくなり、はげ山の景観は失われていった。しかし、はげ山は土地利用だけの問題であろうか?乏しい経験であるが、育った四国の山、近くに住んだ六甲、伊那谷の山地など、花崗岩の地帯と重なるようにも思われる。以前、松川町の生田山地の住民の生活基盤の調査を行なっていたことがある。生田山地は36災害で大きな被害を受けた地区であるが、花崗岩の風化した地崩れを起こしやすい地域であったのであろう。災害に会いやすい谷あいには古い民家はなく、尾根に沿って民家があり、尾根には道路と水道が通じて居住環境を確保していた。南斜面が畑となり、下方の谷あいに水田が見られた。斜面の畑は元来、崩壊した地形でもあったのであろう。北斜面は森林となっており、崩壊防止と防風、木材利用のための屋敷林、山林となっていた。畑はコンニャクなど植えられ、また、梅の産地でもあった。畑は用水の余り水が使われていた。尾根に沿った山林はアカマツ林となって、マツタケの産地にもなっていた。尾根でつながり、山地で独立して、住民は合理的で、気楽な生活を楽しんでいるように見えた。その生田山地も耕作地と同じ面積が草地であったそうである。尾根はつるねと呼ばれていた。
 尾根の稜線の山系、河川、沢の水系は丁度、かみ合って対応している。下方の水田には山地は水系の流域であるが、山地の住民は山系の尾根が大切にされていたということになる。しかし、急峻な山地には山麓にしか人々の生活は見られない。その山の利用がされなくなれば、山地は山林で覆われていく他はないのだろう。自然林の回復の一方、林業として利用するために植林が行われ、森林化が促進された。それは人工林であって、自然回復ではなかった。山林が拡大し、山地には人工と自然の様々な森林に覆われ、その人工の跡が山系と水系を脈とする山地の遠望に記されている。