森林風致 ツツジの風景

 田中正大の「日本の自然公園」の中で雲仙高原の風景を彩るウンゼンツツジが放牧の停止とともに衰退し、アカマツ林に移行して高原景観が失われていったことを取り上げている。阿蘇の裾野の草原は通貨しただけであるが、ススキ草原であり、ツツジは目につかなかったのは何故だろう。考えられることは火入れによって潅木の生長が抑制されていることが考えられる。一方、六甲山を下方から眺めてツツジの桃色で山肌が覆われた季節があったことは、山地の荒廃によって森林回復が進まなかったせいであろうか?六甲山のツツジが何ツツジなのか、確かではないが、色と葉の感触からモチツツジだったのではいかと思っている。山に入ると、花には甘い香りがあり、初夏の日差しとともに花が透き通り、美しさを際立たせた印象が残っている。
 信州に来て大学構内にアカマツ林の下層にレンゲツツジを見かけた。花が大きく、赤い色はアカマツ林内のちらちらした光の中でとても調和して見えた。その後、霧が峰高原や、美ヶ原や五味高原などで放牧地の高原風景としてレンゲツツジの群落の風景を見かけた。放牧された牛は、レンゲツツジに毒があるために食べないのだという。レンゲツツジは花が美しいのに、庭には植えられていなかった。それは赤い花が何か忌むことをイメージさせるからと聞いた。レンゲツツジも放牧によって残されて優先したのだろうが、アカマツ林の下層に見えたレンゲツツジはススキ草原の森林遷移の途中でアカマツ林の下層に残存したものであろうか。レンゲツツジを移植したり、保存をはかろうとしたが、森林の生育とともに衰退してしまった。美ヶ原の県民の森は三城牧場と隣接しており、県民の森の部分にカラマツの植林が行われていたが、その下層はレンゲツツジなどの藪となっていた。その藪から選択的にレンゲツツジなどを残したが、やはり、森林の成長とともに衰退した。牧場の景観はコナシとレンゲツツジが草原の中に点在する風景であったが、牛の放牧がされなくなり、草原が衰退していった。
 山に入るとヤマツツジの赤く可憐な花を見かける。しかし、森林が生育した場所にはほとんど見られない。ススキ草原の放置で遷移途上にツツジが出現し、森林化とともに衰退したのであろう。アカマツ林とともに一時的な遷移途上の風景であったのだろう。だとすれば、六甲のツツジも残っていないかもしれない。
 駒ヶ根高原に面した中央アルプスにつながる池山で尾根に近いところには、シラカバ林の下層、カラマツ林の下層にヤマツツジの群落が見られ、季節の彩りとなっている。山腹のカラマツ林にヤマツツジが見られなくなり、また、シラカバ林の林床は尾根のカラマツ林よりヤマツツジが少なく、ヤマツツジなどの潅木が失われている林床にはミヤコザサが繁茂している。この現象は何を意味しているのか、推測してみた。尾根は乾燥し、土壌が貧困だと言われているので、カラマツの生育が遅れて、ヤマツツジが残った。シラカバ林では密生して閉鎖し、ヤマツツジなどの潅木、低木が衰退し、それとともにミヤコザサが繁茂した。ヤマツツジのために、間伐は多少とも役立つであろう。しかし、間伐はカラマツの生育を促進し、やがて、ヤマツツジを推定させるであろう。それとともに、ミヤコザサを繁茂させる。こうした想定である。ツツジは一時的な状態で生育し、森林化、植林はツツジを衰退させるのであろう。
 西駒演習林の入口の岩石の崖にミツバツツジが生育していた。薄紫の透き通るような花は類まれな美しさがある。天竜川の西と東でサイゴクミツバツツジトウゴクミツバツツジに生育が分かれるそうであるが、地元の人は区別しないでイワヤマツツジと呼んでいる。庭に植えるために掘り取って持ち帰ることが多く、山の生育地が失われたと聞いたことがある。必ずしも岩石地だけに生育したわけでもないのであろうが、人の取れない岩石地に残っていたのであろうか。
 長谷村の保科さんはカラマツの林業家として著名であるが、イワヤマツツジの名所を生み出して新聞にも何度か出ている。その場所を探して見学に行ったことがある。アカマツ林の疎林の下にそのイワヤマツツジが適度な群落を構成して、薄紫の花が、アカマツ林を優雅なものとしていた。これはツツジのために保科さんが意図的に作り出したものかと、考えたみたが、どうも、アカマツの疎林はマツタケ山としての整備の結果なのであろう。
 ツツジの共存する森林風景はアカマツ林であり、放牧の風景としてツツジの風景が顕著となるのであろう。