森林風致 サクラの風景

 私は小さな頃、サクラを見た記憶がない。サクラで作った机を使った記憶があるだけである。いつごろにサクラを意識したのであろうか。札幌にいた時、春になって山の緑の間から白く、ピンクの樹冠が緑の中に点在している風景からであろうか?花見などの経験もない。京都にいた時も花見は混雑の場所で出かけたこともなかった。花見の名所といわれる嵐山も出かけるのは、花見の季節ではなかった。
 信州に来て柳田國男の「信州随筆」に信州桜の名前が巷間の話に出たことがあり、その信州桜が何かを推理している。柳田によればそれはシダレザクラであったろうというのである。寺社、墓地、祠などのたもとにシダレザクラが植えられている。それは、天空にある霊との交流に関係しているというのである。しだれたものが、天から下る通路であり、また、上方に向かう通路とイメージされる。サクラだけではないが、サクラの花は霊的なイメージとつながりやすいのかもしれない。それが京都で信州桜として花見の対象となって話題に上ったと推理している。シダレザクラエドヒガンザクラが変異したものであり、エドヒガンザクラは信州の山には普通に見られる。
 田中正大「日本の公園」には、公園の原型にサクラの花見場所を取り上げている。将軍の民衆に対する恩恵としてサクラの花見場所が公開されたり、作られたりした。それは庶民が花見の場所を求めていたことにもあった。そうした、江戸の行楽地が明治の公園制度で、公園に編入されていったというのである。また、廃藩置県への封建体制の変革から城が廃止となり、そこが公園とされることも見られる。信州では高遠城のサクラが有名であり、遠くからも花見に出かける人々で賑わう。高遠城のサクラはコヒガンザクラという種類ということで、花の色が濃く、その林の下は織り成す枝の花々で夢のように美しい。花に酔うという気分もわかる気がする。
 学生達と毎年、花見をしたが、その場所も廃城の跡だった。しかし、中世の城跡で史実も高遠のように詳しくは残っていない、忘れられた城跡である。しかし、ここからの眺めは天竜川と三峰川の合流点を見下ろし、天竜川渓谷と三峰川の奥に見える高遠城を見通している。風当たりはきついが、段丘台地の突端にあって抜群の渓谷風景を生み出している。城跡は三の丸の小台地に区分され、その間は堀となっていて、堀には橋を掛けている。その台地にコヒガンザクラソメイヨシノが植えられていて、時期を少しずらしてそれぞれの台地が満開となる。その下で研究室の花見が行われる。夕方から夜桜となるまで、騒ぎ、語り、飲み明かす。花見の体験は学生との間だけである。春の一瞬に集まってサクラを楽しむ多くの人々にも共感できた。
 花見の場所は春日城跡であるが、サクラは戦後に、地元の人々の地域振興のために植栽されたとのことである。近年まで地元の人が管理する地区の行楽地であった。花見の準備、屋台なども、地元の人が行っている。高遠の観光には及びもつかないが、伊那市民には花見の場所として多くの人に使われている。現在は地区から伊那市の公園へと移管されている。サクラの管理が良くて植栽間隔が10m以上と広くとられて、それぞれの樹冠が大きく、本数が少ないだけ枝が広がって、花見以外の季節にも樹林としても見られる。こうした花見の場所を作ろうとする地区住民が各所に現われて、サクラの植栽があちこちで行われてきた。これから、あちこちで花見ができるようになり、住民の楽しみの場が増えてくるであろう。しかし、花が咲くまでの育成の継続が問題である。
 サクラの植栽には、ソメイヨシノが使われることが多い。植栽によって全国的にソメイヨシノが蔓延していることであろう。一方で山林に生えているサクラは見向きもされない。エドヒガンザクラにカスミザクラなど大木ともなり、花も見事である。山の木を残してサクラを浮き立たせてやればそのまま、花見の場所ができるところは随所に見つけることができるであろう。確かに山林に混在するサクラは大きくて樹冠が上方にあるので見ることができない。遠く離れて外観として見ることしかできない。しかし、少し切り開いた場所を作れば、花見の場所が作れるであろう。また、植栽する種類として使っても悪くはないはずである。栽培した苗木としては入手できなせいなのか、ソメイヨシノはもちろん、コヒガン、オオヤマザクラなどが植栽される。北海道の森林のサクラの鮮やかな風景を再現できないかと想うのである。
 大学構内には馬場先生によれば、天然のサクラが5種類あるそうである。エドヒガンザクラは長命で巨木となり、カスミザクラも大きくなる。ウワミズザクラは花が白く、実が甘くおいしく、野鳥と競争で実をたべなくてはならない。カスミザクラを主に花を見ると、花の咲く時期、花の色が樹毎に微妙に違っていて、彩りに変化があって美しく、また、長く花を楽しめる。吉田君が吉野桜が花の色に変化があり、それは樹毎の遺伝子の相違に由来しているのではないか、その種類の原産地では、遺伝子に多様性があることと関連しているのではないかと言っていたことを思い出す。
 サクラは咲いていなかったが、吉野に出かけたことがある。尾根に社寺があり、一面にサクラが見られた。そして遙かな山々までがサクラで覆われていた。スギ林の伐開の跡地がサクラが植林されたように、スギ林に切り込まれている区画のサクラが見られた。吉野は古来からのサクラの名所であり、その名に恥じないようにサクラ林を拡大させている。しかし、想像するが、吉野のと当初にはサクラは少なかったのであろう。寺社の建造に切り払われた跡地にサクラなどの広葉樹林が生じたのであろう。だから、サクラの純林ではなかったはずである。名所としての評価とともに純林化が進んだのであろう。森林の更新は、サクラ林に留められ、サクラが補植されて維持されるようになったのであろうか?寺社には用材も必要となり、スギ林業地域に近接していることからも、スギ林ーサクラ林の補完関係も考えられていたのかもしれない。現在は観光地化して、サクラの風景が固定化して広がったのかもしれない。
 嵐山はサクラの名所として著名であるが、現在はサクラも目立たない。嵐山の風致施業もまた著名であるが、その施業は継続できなかった。嵐山のサクラは天龍寺の夢窓漱石が、南北朝の終息を祈念して、吉野を拠点とした南朝後醍醐天皇の霊を労い、吉野の桜を嵐山に移植したことに始るとされる。花見は戦国時代末期に庶民層が力を蓄え、余力をもって生活するようになって盛んになったといわれ、茶店などもできて賑わう場所となった。その継続のために80年に一回の割合で募金によるサクラの植栽が行われてことが、天龍寺の記録に示されているそうである。嵐山はすぐ下に農業開発のための堰が作られ水面が広がり、平安初期に天皇などの遊楽の場所であったことも名所の条件であった。
 平安時代にサクラは花の代表として意識され、和歌にも詠まれる様になった。平安京の建造に山の木を伐採し、京都盆地の山は奥地まで二次林と化したのであろう。これは奈良の平城京でも同じことがおこったのであろう。マツタケが産物として取り上げられ、サクラが意識されたのも、二次林の構成種として目立ってきたことと関係しているという学者もいる。奈良の都の街路樹にヤナギとサクラが植えられた和歌があったように思う。サクラがこんなに際立って意識されたのは、花がきれいであったばかりではなく、稲の作業の季節を告げる目印となり、農村の行事に結びついていることに、意味を見出す人もいる。サクラを象徴したコノハナサクヤヒメを祀った神社が、富士宮であるが、何故、富士山とサクラが結びついたか謎である。その神社は比較的新しいものであったので、際立った富士山と結びついたのだろうか?
 農業と関連した神としてサクラが見られるなら、それを祝う、花見の行事、花の下で食事を取り、酒を飲み、歌い騒ぐことも納得されるだろう。花の下は、色に染まり、香りに包まれ、人々の気分は穏やかに融和する。花見はサクラ林の際立った季節の風致を楽しんでいるのではないだろうか。嵐山の花見は、庶民的ではあるが、貴族の文化につながって高踏的な感じもある。それは、嵐山の風景が、対岸からの尾根、山腹、水辺を一体化した風景であり、渓谷の出口の地形、農業開発の歴史的端緒、古い社寺の配置が渾然として調和し、古い事跡に思いをはすることができるからである。
 花見は、森林とすれば花の季節の一時期のことであり、共同体のコミュニケーションの場における林内の風致の側面と個人が観照する風景の側面があるのではないかと考える。サクラが花だけで評価され、珍重されることは、生活と結びついた特別な木であることで重視しなくてはならないが、その他の季節、生育し、開花する年数、循環的な更新から森林の構成種として見て、施業として考えることが必要ではないか。風致・風景を目標として施業があるのか、施業の結果として風致・風景が成立するのかを検討することが大切ではないだろうか。