場所と場面の構造 地の果て

 人は何故、旅に出るのか。若者はとくに旅に出たがる。私もかってそうであった。自分が経験したことのない未知な世界を見たいと考えたのか、そればかりではなかった。未熟な自分に我慢できなかったせいかもしれない。自分の環境に閉塞し、そこから脱出する努力をしようとしても、その出口がわからず、何もできないでいる状況から脱出したいと考えたのかもしれない。若い頃の旅の衝動がなんだったか、鮮明ではないが、それも記憶の問題ではなく、自分のあいまいとした状況をしめしていたと想う。若者、若者の頃、そんな思いを持つ人は私ばかりではないだろう。
 定かな目的地も目的も無いまま、友に誘われて旅立ったことがある。金もなくなり、やっと帰り着いたとき、いくえ不明で心配をかけたことがあった。あちこち、さまよったが、知床の根元にある網走原生花園で地の果てにたどりついた。季節はずれの広漠とした砂浜に、北の黒い海が泡立つ波となって打ち寄せるだけの砂浜をねぐらを探して二人で歩いた。困り果ててサケ漁の番屋に漁師たちに頼んで留めてもらったことがある。北海道は明治には辺境の地で開拓者が集まるフロンティアがあり、開拓が進むに連れて、フロンティアが移動したという。西部劇のように様々な不逞の人物が登場する開拓の街が出現したというのである。そんな中で漁師の進出は先行していったという。ニシン漁で賑わい、ニシン御殿といったものも見られた。原生花園にはそんな賑わいはなかった。しかし、気風のよい漁師達から酒を勧められて、話の輪に加わった。地の果ては人の温かさを感じる場所でもあった。
 共に旅した友は、社会に巣立ち、故郷の京都で会社に勤めていた時に出会った。労働のつらさと大学に戻りたい希望を語り、希望に戻ることを勧めた。しかし、後から聞いたのだが、出会った一ヵ月後に病気で急逝していたのであった。出会った時には疲労で身体の変調があったのだろう。気がつかなかった自分に悔やまれた。友は水産学部で船員を希望したのだが、目が悪いためにあきらめたのである。ボート部にも入って希望の道を歩もうとしたのに、挫折してしまった。若く希望を模索した時代の旅をともにした友であったのに、残念さは今にも思い出す。
 1970年は第二次安保改定の年であった。それ以前に中国の文化大革命アメリカにおけるベトナム戦争への反戦運動がおこり、若者を中心に造反有理反戦に体制批判が盛り上がった。日本では基地反対運動から安保改定の反対運動が展開していった。その運動はゲバルトの容認や大学封鎖となって学生に広まり、大学紛争といわれる状態が現出した。若者はひと時、体制の束縛からの開放感を味わい、新宿駅前には、群集が集まる広場が出現した。ヒッピーと呼ばれる自由な放浪者が現われたりもした。しかし、機動隊の出動などによって、大学紛争も鎮圧し、開放された若者は街から消失した。
 沖縄が返還され、友人が西表島などの国立公園の仕事で出かけていたので、思い立って旅に出た。石垣島に滞在している内に与那国島に向かうことを思いついた。日本の西の果てを見ようと想った。思い立てば飛行機で1時間もかからない内についてしまった。岸壁に囲まれた島の民宿に数日の宿をとった。何人もの若者が泊まっており、何ヶ月、何年もの滞在者もいた。彼らがひと時、開放された若者達だったのだ。体制の束縛の中に生きることを望まず、体制社会から離脱してたどり着いたのが絶海の孤島ともいえる島だったのだ。しかし、彼らもそこで生きる希望を見出さなくてはならない。私自身も放浪してたどり着いた島ではあったが、その島で生活できるとは思えなかった。彼らはたくましく、釣をおぼえ、トウモロコシの収穫に賃金を稼いで暮らしをたてていた。毎夜、民宿の仲間が集まって、焼酎を酌み交わすのだった。今、彼らも中年となってどうしているのだろうか。
 与那国島は地の果て、海の果てではなかった。台湾の見える国境でもあり、沖縄王朝に支配された厳しい歴史をもった島だった。島の突端の岬が西と東にあって、西がいりざき、東がのぼるざきと呼ばれている。島の最果ての岬は水平線からの太陽を迎え、また見送る場所であったのだ。島は住民の完結した宇宙、世界でもあったのだ。ニーチェは岬を地の果てとして個絶的な特別な意味を見出したが、地の果ては海の果てを見渡す場所でもあったことをどのように考えるのであろうか?
 さらに、小笠原列島が返還になって未だ見ぬ島を憧れた。海の果ての国境となった島、そこは、植物にもたどり着く島であって、海から突き出た島にはもともとの植物はなかった。小笠原の植物は、海が、鳥が、風が、人が、運んでたどり着くほかはなかった。そこから独自に変異していったということである。船で行き、帰る間に5日間滞在しなくてはならない。しかし、船には大勢の人が物見高く、乗船していた。島につき、なじみのない植物や人々、住民は返還によって日本にいた住民が帰還してきた人々だった。まだ、定着していなかったせいか、住民も島の様子も荒々しさを感じた。旅人は数日の島の生活になすこともなくなり、ただ、島を回遊するばかりの様子だった。こんな絶海の島に、一度来て見たいとやってきたのだ。なんと人は好奇心に富んでいることか。
 私は同宿の人の誘いで、船を雇ってフカの産卵する入り江があるという南島に向かった。船は黒人の老人の漁師のものであった。アメリカの占領下に、島に渡り、定着しているひとであった。物静かで、親切だったが、漁師の海に生きる毅然とした態度を持っていた。海や島の自然を愛している様子がうかがえた。太平洋の自由人なのか。放浪などははるかにスケールが小さいことを想った。地の果ては、漁師の自由な海原だったのだ。
 私は隠岐の島にも行ったことがある。かって、流刑の島であった。体制にとって不都合な罪人を最果てに追いやったのか。私はまた、折があれば最果てを求めて旅するだろう。若い時に旅立って、求めようとしたもの、それが何か、未だに捜し求めている。