風致と風景 自然公園の風景

 日本の国立公園という本を買った。昨年に発行されていて、昭和32年の自然公園法から50年に当たるという。昨年、尾瀬国立公園の指定があり、国立公園は29となったという。これまで行った事のない国立公園は北海道では利尻礼文サロベツ、本州では、陸中海岸、磐梯朝日、九州では西海、霧島屋久で、残りの25箇所にはいったことがある。格別、国立公園に行こうとは想ってもいない内に、日本全国、彷徨っていたのかと振り返る。国立公園はそれぞれ広い面積であり、行ったことがあるといっても。ほんの端っこに立ち寄った程度であろう。くまなく歩き、どこでも知っている国立公園は一つもないといえる。日本の国立公園には写真家による美しい写真が掲載されているが、そんな美しい風景にはめったに出会ったことはない。写真家の撮影場所と日光、気象、季節を選びぬいた写真であるから、たまたま出かけて出会える風景ではないのだ。
 雌阿寒岳に登ろうとしたのは、ただ、登りたかっただけであり、国立公園であるからではなかった。結局は危険のため登山が禁止されていて、頂上に行くことはできなかった。阿寒湖に1週間ぐらい滞在していたが、地元の人は、マリモを大切にしているようではあったが、泊まっていたお宅は魚漁の方が大切であった。単なる旅人と観光客とは、どの風景を見るかに相違があり、感じ方も違っているのだろう。また、住民の風景やその意識は相違しているのだろう。どうも、観光客の意識で国立公園の風景をとらえたことはなかったようである。
 昨年、上高地でインタープリテーションを体験した。アメリカで始るインタープリテーションは、利用者の自然体験を啓発するためのインタープリターによる活動である。インタープリターの啓発によって利用者は自然体験を深め、広がることができる。国立公園、自然公園は、そこでしか得られない自然体験の場として利用され、保護されているものであろうことを、体験できた。
 それでは観光客は自然公園にとっては、望まれない利用者なのであろうか?観光客に対して観光施設があり、観光企業がある。観光企業は需要として観光客が増大すれば、観光施設を拡大し、さらに多くの観光客が集まる。自然環境には空間的な限界があるが、施設拡大は際限がない。国立公園の利用者数は9億人に達するといううことであるが、観光客は増大し、量的には利用客の主な割合を占めるようになっているのではないだろうか。
 観光客は利便性を要求して、安易な自然体験に満足する所に、自然公園の利用者には相応しくない点があると考える。量的なポテンシャルによって集中的な利用が自然破壊をもたらす。集中点は風景のポイントとなる場所に生じる場合が多いだろう。同時に施設化も進展するから、破壊と人工化が同時に進行する。ロープウェイの終点の山頂付近などその最たる例といえる。
 写真家の風景は、自然の豊かさを訴えている。豊かな自然だけが抽出されているといえる。日本の、国立公園の、豊かな自然の 風景の抽出といえる。写真から、山岳、森、海岸、渓谷、湿原、草原が写真の題材に選ばれている。写真家にしか体験できない美しい風景が散りばめられている。
国立公園の個性は、あまりに美しい写真の中で見えてこない。美しさと個性とは矛盾するものなのか? 風景型式の特徴を強調して、国立公園の個性を明らかにすべきだろう。雑然とした観光開発の結果、個性的な風景を無個性な人工化に置き換えることが多いのではないかと憂う。