森林風致 戸外休養利用

 近代において、休養利用が増大し、都市周辺の森林には利用施設の整備が行われた。あるいは残された森林などの自然地が利用されるようになって、保全の運動が行われるようになった。また、都市内部では住宅の衛生環境の悪化とともに、都市空地、庭園の開放、公園の設置が必要とされ、日常生活における休養利用の場となった。ロンドンの緑地空間には、こうした歴史的な進展が蓄積され、多様な公園緑地が各層の市民による多様な休養利用を可能にしているようであった。
 日本でも明治以降の近代化の進展とともに、公園などの緑地整備が進んだが、それは戸外休養の利用に対処するためであったのだろうか。明治6年の太政官布達が公園設置の端緒となったことは誰もが認められている。また、東京市区改正による公園設置として日比谷公園の設計を本多静六が行ったこともよく知られている。しかし、これらの公園設置は都市住民の必要がどのように介在し、利用に応じたデザインであったのかといえば、外国人の勧告や西洋公園様式の導入、和洋折衷の考えなどが交叉していることが読み取れるが、利用者が主体であるという姿は浮かびあがらない。明治神宮の造営は都市内に規模の大きな森林を確保したことで画期的な事業であった。しかし、それは明治天皇を記念する神社林であった。
 一方で都市拡大とともに残された森林は失われていき、国木田独歩の「武蔵野」に描かれた雑木林も見ることができなくなった。近代化は大正、昭和初期には、社会階層として中間層を生み出すまでになり、郊外住宅地開発が進展するとともに、郊外へ電鉄整備と重なって、ハイキングなどの利用を増大させたと考えられ、近郊、ハイキング地が生まれた。しかし、それは休養地として確保されたものではなかった。
 交通網整備による都市住民の行動圏の拡大と休養利用の増大は、中間層のハイキング地などとともに、上流層による海岸、高原の保養地を生み出し、一般層には温泉地や観光地の利用を促進した。これらの需要に対して観光産業が進展し、施設、サービスなどを提供したといえる。観光産業は利潤追求のために利用者の消費拡大を期待して、温泉地などを歓楽街化することもあった。こうした場合には、自然資源の保全と対立する場合も生じたであろう。